【中原一歩】ノンフィクション作家 疑惑の履歴書

目次

独走スクープ! 正義のジャーナリストの仮面を剥ぐ!

「あの記事を目にした瞬間、抜かれた! と思ったね――」
 そう言って悔しがるのは、この道30年になるベテランの週刊誌記者。
 おだやかな口ぶりだが、眼光は鋭い。どことなく「おぼん・こぼん」のおぼん師匠に似ている。
「小山田圭吾のインタビューは、みんな狙ってたよ。当然、旬のネタだもん。あんた! 何年トップ屋やってんのよ! って女房にも泣かれたよ。でもまさか、わかんねえなあ……。ガードの堅かった小山田圭吾が、なぜあの人のインタビューだけ受けたのか。どんな手を使ったのかねえ……」

 あの人、とは中原一歩。
 小山田圭吾に独占インタビューして一躍時の人となったノンフィクション作家である。
 すでに9冊の著書を数え、『最後の職人・池波正太郎が愛した近藤文夫』や『私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝』で、読書人のみならず業界内の評価も高い。
 立憲民主党の小川淳也を書いた最新刊『本当に君は総理大臣になれないのか』は、小川淳也の衆院選当選を後押ししたと言われている。

 料理人の世界にとどまらず、政治家、さらに小山田圭吾と取材対象を広げ、今や飛ぶ鳥を落とす勢いのこの御仁。
 だが、好事魔多し。

 中原一歩になんと「ホラッチョ」疑惑が浮上したから、さあ大変――。

中原一歩の経歴を検証する

 中原一歩のWikipediaには、「最終学歴 佐賀大学教育学部附属中学校」とある。
 さらに「履歴表示」を調べると、「2017年3月20日 (月) 11:10時点における版」で、次のように書かれていた。

佐賀大学附属中学校在籍中に、家族が経営する会社が倒産し夜逃げ。
生計を立てるため福岡県・博多市のラーメン屋台などで働く。
その後、世界80ヵ国以上を放浪。2008年から東京を拠点にするフリーランスのライターに。

「中原一歩」の版間の差分 - Wikipedia

 もちろん、出典のないWikipediaの記述を信用することはできない。
 では、中原一歩の本当の経歴とは、どのようなものか。

本を出すたび経歴が変わる「七つの顔の男」

 中原一歩の著書の奥付にある著者略歴を、発表順にみていこう。(太字強調は筆者)
 2011年のデビュー作である。

1977年、佐賀県出身。ノンフィクションライター。
高校時代に家出をして、ラーメン屋台で調理・接客修業をする。
同時に、地方紙などで「食と地域文化」の原稿を執筆。
上京後、世界各地を放浪。アマゾンから南極、アフガニスタンの戦場まで訪問国は80カ国に及ぶ。
現在、「人物」「世代」「環境」「食」をテーマに「AERA」などの週刊誌で執筆活動中

「高校時代に家出をして」とは、まるで尾崎豊の歌詞である。
 高校には進学したらしい。
 2013年は、中原一歩にとって大躍進の年。講談社から二冊の本を刊行する。

1977年、佐賀県生まれ。
高校時代に家出をして、ラーメン屋台で修業をする。
上京後、世界各地を放浪。
アマゾンから南極、アフガニスタンの戦場まで訪問国は80カ国に及ぶ。

「上京後、世界各地を放浪」。これは要チェック。試験に出るよ。

1977年佐賀県生まれ。ノンフィクションライター。
高校卒業後、博多の屋台で働きながら、地方紙や週刊誌で執筆活動を始める。
19歳で上京後、南極から北朝鮮、アマゾンの源流からアフガニスタンの戦場など、世界を放浪する。
フリーランスの取材者として、『AERA』などの週刊誌にさまざまな社会問題のルポを発表し続けている 。

 ここで「高校卒業後」という経歴が加わる。
 博多の屋台で働いたのが「高校卒業後」になっている。
 ストレートで高校を卒業したなら18歳。
 その後、「博多の屋台で働きながら、地方紙や週刊誌で執筆活動を始める」。
 そして「19歳で上京」。おやおやおや~?

1977年生まれ。
高校卒業後、博多の屋台で働きながら、地方紙や週刊誌で執筆活動をはじめる。
19歳で上京後は、南極から北朝鮮、アマゾンの源流からアフガニスタンの戦場など世界を放浪。
フリーランスの記者として雑誌「AERA」の「現代の肖像」など数多くの雑誌、週刊誌、Webにルポルタージュを発表し続けている。

「19歳で上京」。要チェック。試験に出るよ。

1977年、佐賀県生まれ。
雑誌を中心に取材記者を始め、新聞・ウェブメディアなどでも記者として活躍中。
事件が起きると一番乗りで現地入りし、迫真のルポを書くことで定評がある。
著書に『私が死んでもレシピは残る──小林カツ代伝』(文藝春秋)、『最後の職人──池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社)など。
マグロの取材は長く、地方の鮨屋をめぐる「旅鮨」もライフワークとする。

 おや? 学歴の記載が消えたぞ……。

1977年、佐賀県佐賀市生まれ。
ノンフィクション作家。地方の鮨屋をめぐる旅鮨がライフワーク。
2012年より“津軽海峡”で漁船に乗ってマグロ漁の取材を続けている

 おやおや? またまた学歴の記載なし……。何があった?
 2021年、いよいよ最新刊。

1977年、佐賀県生まれ。ノンフィクション作家。
高校卒業後、博多の屋台で働きながら、地方紙や週刊誌で執筆活動を始める。
18歳で上京後、常にフリーランスの取材者として、『AERA』をはじめ、雑誌・ウェブメディアを中心に社会問題や食文化に関するルポルタージュを発表し続けている。
著書に『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』(朝日新書)、『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社)、『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る 』(文春文庫)、『マグロの最高峰』(NHK出版新書)、『「き寿司」のすべて』(プレジデント社)など。

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 中原一歩が講談社から出している3冊の本は、著者略歴が全部ちがう。

 これまで「19歳で上京」だったのが、「18歳で上京」に変わった。

 高校卒業後にすぐ上京なら、「博多の屋台で働きながら、地方紙や週刊誌で執筆活動」は短期間となる。

「僕は中学卒業後、高校にもほぼ行かずに仕事を始めました」


 藤井誠二による編著『僕たちはなぜ取材するのか』(皓星社 2017年)の中で、中原一歩がインタビュー取材を受けている。もともとはネット記事として公表されたもので、まずはそれを見てみよう。
(引用元「食」を取材し、技と味をノンフィクションで表現するために必要なこと 中原一歩×藤井誠二 (2))

中原:最初は、僕はそもそもお客さんとして行きました。僕自身が九州に生まれて、天ぷらと言えばお惣菜という世界の中で育ったので、初めて料理雑誌で天ぷらの特集を見た時に、これは凄い、食べてみたいと思った。19歳で東京に出た時に、10万円を持って食べに行ったのです。一張羅を着て。全然、ライターとしても仕事がないから、お金も無い頃です。

藤井:中原さんは長らくピースボートの専従スタッフをやっていたけど、ピースボートを辞めた後ですか?

中原:いえ、ピースボートに入る前です。まだ全然世の中を知らない状況で、近藤さんの天ぷらを食べて、衝撃を受けました。けれども、銀座と言う街があまりにも凄い場所というか、大人の世界に見えて、当時は書くのは無理だと、これはついていけないと思いました。けれども、「いつかは書きたい」と思っていた。だから、僕が30歳になって、フリーランスのライターになった時、やは「天ぷら 近藤」を書きたいと思った。 (原文ママ)

web.archive.org

 中原一歩が、ピースボートの専従スタッフをやっていたことは、『私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝』(2017年)で最初に明かされた。

 ここで新たな疑惑。
「世界を放浪する」という経歴と、ピースボートとの関係だ。
 中原一歩の経歴には、「南極から北朝鮮、アマゾンの源流からアフガニスタンの戦場など、世界を放浪する」とある。これだと、バックパッカーのような単身旅行のはずだ。
 そうではなく、ピースボートの専従スタッフとして船に乗って世界一周、というのならずいぶん印象が変わる。まして「放浪」ではない。ピースボートの世界一周クルーズでは、南極へも北朝鮮へも行った記録がある。
 これについては後述する。

 このインタビュー記事は、単行本になると大幅に書き換えられている。当然、中原一歩が自分で書き換えたのである。
「僕は中学卒業後、高校にもほぼ行かずに仕事を始めました」と語っている。
(引用元 藤井誠二編著『僕たちはなぜ取材するのか』2017年 太字強調・筆者)

中原 そもそも、僕は「近藤」のお客さんとして行きました。僕は九州生まれで、天ぷらと言えばお惣菜だったんです。だから、料理雑誌で天ぷらの特集をはじめて見たときに、「これはすごい、食べてみたい」と思った。東京に出て来た十九歳のときに、一〇万円を持って食べに行ったのです。一張羅を着て。ライターとしての仕事もなく、お金もない頃です。

藤井 中原さんは、長らくピースボートの専従スタッフをやっていたけど、それはピースボートを辞めた後ですか?

中原 いえ、ピースボートに入る前の十九歳です。まだ世の中を知らないガキでした。僕は中学卒業後、高校にもほぼ行かずに仕事を始めました。
 一番長かったのが、博多のラーメン屋台。そこでも、一応「天ぷら」なるものがあって、冷凍でしたけど穴子や海老とかを揚げていたんです。母が料理上手ということもあって、調理場に立つことが苦ではなかった。その頃、ある雑誌で特集されていたのが「近藤」で、いつか食べたいと思いました。
 実際、十九歳でライターを志して上京して、すぐに食べに行きました。その時の衝撃は忘れられません。銀座という町があまりにもまぶしい場所というか、身分不相応のおとなの世界に見えて、当時は「書くのは無理だ」「これはついていけない」と思いました。それでも、「いつかは書きたい」と思っていた。
 だから、僕が三〇歳になって、フリーランスのライターとして独立した時、「近藤」を書いてみたいと思ったのです。
(P21-22)


「東京に出て来た十九歳のときに」「十九歳でライターを志して上京して」と語っている。
「僕が三〇歳になって、フリーランスのライターとして独立した時」というのも、気になる記述だ。
 以下のサイトでは、「28歳でノンフィクションライターとして独立した」とあった。

gendai.ismedia.jp

「てんぷら近藤」10万円伝説は19歳か、20歳か

 藤井誠二のインタビューを受けて中原一歩は銀座の「てんぷら近藤」に、「東京に出て来た十九歳のときに、一〇万円を持って食べに行ったのです」と語っている。マンガみたいな、いい話だ。
 しかし、『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社 2013年)のあとがきで、中原一歩は次のように書いている。

 私が初めて「てんぷら近藤」で食事をしたのは今から十六年前に遡る。(P302)

 旧鍋島藩の城下町・佐賀県佐賀市に生まれ育った私は、高校時代の数年を玄界灘に面した唐津という港町で過ごした。(P302)

 唐津の「食」は季節を通じてこの調子。刺身はブリッブリッとした弾力のある歯応えが身上で、誰もが魚は生に限ると言って譲らない土地柄だった。だからこそ、私は十九歳で上京するまで家庭料理の総菜以外でてんぷらを食べた経験がなかった。(P303)

 そして、まずは「東京・浅草の老舗で初めて江戸前のてんぷらを食べた」。しかし、「てんぷらが食べ物の中で抜きんでて旨いとは思わなかった」。

 その後も東京でてんぷらを食べる機会は何度かあったが、劇的に私の「てんぷら観」を変える店には残念ながら遭遇しなかった。(P303)


 ある時、九州時代から愛読していた料理雑誌で、「てんぷら近藤」を知り、食事に出かけることにした。ここまでの記述にある通り、十九歳で上京してから、数カ月は経過している。中原一歩も二十歳を過ぎている。
 そして、「てんぷら近藤」に初めて行ったのは、「二十歳そこそこの若造」の時だったと書いている。

 銀座は東京という大都市の一部でありながら、独特の階層意識や秩序によって洗練された大人の社交街、ハレの空間であることは田舎者の私でも理解できた。今日のようにインターネットで簡単に店の情報が手に入る時代ではない。
 二十歳そこそこの若造が、一人でこの町に足を踏み入れ、しかも食事をするという行為は無謀であり、いささか勇気を必要とした。
(P304 太字強調は筆者)

 自分の本でははっきりと「二十歳そこそこの若造」と書いておきながら、なぜ藤井誠二の本では「十九歳のとき」と書いたのだろうか。
 同書の「あとがき」には、「二〇一三年十月二十五日」と執筆日が明記されており、「今から十六年前」というのだから二十歳の時でまちがいない。さらに、「当時の手帳を読み返すと、この日支払った額は『七六八〇円で』安心したという内容のメモが残されていた」(P305)とまで書いているのだから、記憶違いという言い訳は通用しない。

 細かいと思うかもしれないが、中原一歩はノンフィクション作家なのだ。事実は正確に。
 他にも気になる記述がある。

「高校時代の数年を玄界灘に面した唐津という港町で過ごした」。ここも要チェック! あとで試験に出るよ。

原稿用紙2枚で執筆活動

 中原一歩の経歴によれば、未成年のうちに「地方紙や週刊誌で執筆活動」を始めている。小説家やマンガ家なら十代で雑誌連載というのも珍しくないが、「地方紙や週刊誌で執筆活動」をする高校生というのは聞いたことがない。
 どういうことであろうか。
 中原一歩は、次のように語っている。
(引用元「【Cool Workerなヒトビト】Vol.5 ライスワークとライフワーク」2016/11/15 太字強調は筆者)

 高校を卒業した後、アルバイトをしながら世界を放浪していたという中原さん。博多のラーメン屋台での勤務中に、地元の記者からスカウトを受けたことがきっかけで執筆業を始めたと言う。

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 情報量が多すぎて、どこから突っ込んでいいかわからない。
 次の記述も要チェックだ。

“記事を1本蹴ると3ヶ月仕事がなくなる”と言われるほど厳しい世界で20年以上も生き抜いてきた中原さんの仕事力は、堅実に培ってきたオリジナリティに支えられている。

 2016年というと中原一歩は39歳。それで「20年以上も生き抜いてきた」というのだから、たしかに未成年の頃から記者をやっていた計算になる。

cool-worker.com


 だが、別の記事によれば、「中学卒業後」に「地元の記者からスカウトを受けた」ことになっている。
(引用元「【著者に訊け】ノンフィクションライターとマグロ漁師の共鳴」初出「女性セブン」2020年4月9日号 太字強調は筆者)

 中原さんは中学卒業後、福岡のとあるラーメン屋台で働いていた。

「下っ端なんで、スープの寸胴鍋を強い洗剤で洗うんです。体中にとんこつ臭がついちゃってモテなくてね。荒くれた人たちがケンカだなんだやってる世界でした」

 常連客の新聞記者から原稿用紙2枚を渡され、初めて書いた原稿が夕刊にでかでかと掲載された。
 19才で東京に出て、雑誌の編集者のもとで鮨屋を取材する。「グルメライターになるな、ジャーナリストになれ」と言われた。

 自分は「ラーメン評論家」ではなく、ジャーナリストだと言いたいのであろう。
www.news-postseven.com

世界を放浪(ピースボートの世界一周クルーズで)

『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社 2013年)のあとがきで、中原一歩は次のように書いている。

 それから十年の歳月が過ぎ去った。二十代はアジアなど世界放浪の旅に明け暮れた私は、しばらく食とは縁遠い世界にいた。(P305)

 世界を放浪したノンフィクション作家というのは、じつにかっこいい。中原一歩の看板ともいえる経歴である。
「世界放浪の旅に明け暮れた」などと聞けば、誰もがバックパッカーのような単身の貧乏旅行を思い浮かべるはずだ。
 ところがこれが、ピースボートの世界一周クルーズだったらどうだろう。

 中原一歩がピースボートの専従スタッフだったことは、『私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝』(2017年)に書いてある。

 町中に貼られている世界一周の船旅のポスターで有名なピースボートという団体で働いていた私は、船上で迎えるお正月の目玉イベントとして、小林カツ代さんをゲストに呼んで、彼女の十八番である「黒豆」を作ってもらおうと考えた。母がカツ代さんの大ファンで、彼女のレシピで作った黒豆は、新年の最初を飾る我が家のおせちの中でも一番人気だったからだ。
 豪華客船であろうがなかろうが、百日かけて二十ヵ国を旅行する世界一周の船旅は、一生に一度の夢のような旅行だ。その船上で迎える特別なお正月に「家庭料理の神様」がやってきて、直に天下一品の黒豆を作ってくれたのなら、乗客にとって一生の思い出になるのではないか。そんな目論見を胸に、西荻窪にあった「小林カツ代キッチンスタジオ」に電話をかけたのだ。
(P10)

 これが小林カツ代との出会いである。いつのことなのか。

 私がお付き合いさせてもらったのは、平成十(一九九八)年三月から、最後にお目にかかった平成二十五(二〇一三)年六月までの最晩年だったけれども、本当によくしてもらった。
(P248)

 正月の仕事の依頼をするのに、「三月から」というのは早すぎる気がする。電話をかけたのは前年ではないか。
 まあ、とりあえず1998年だとして、中原一歩は21歳である。この時にはピースボートの専従スタッフで、正月のイベントを企画してゲストにオファーを出せるほどの権限を得ていたわけだ。当然、世界一周の船旅にも同行していただろう。

 前述の、藤井誠二『僕たちはなぜ取材するのか』(皓星社 2017年)でも、ピースボートで働いていたと証言している。これもネット記事と、単行本の記述とでは違いがあるので、両方を見比べてみよう。
(引用元「食」を取材し、技と味をノンフィクションで表現するために必要なこと 中原一歩×藤井誠二 (2))

藤井:近藤さんに最初の取材を申し込むまでに、何回くらい食いに行ったんですか。

中原僕は19歳の時に初めて食べに行って、その後、すごく久しぶりに食べに行ったときに取材をお願いしました。

藤井:ぼくはてっきり自分を印象付けるために何度も食いにいって、顔を見せに行っているかと思ってた。ぼくもホルモンの食べ歩きコラムを4年半「漫画アクション」でやりましたが、たまに言われたのは「うちの店に来た事あんの?」ということ。マンガ雑誌の1ページのコラムだから一回は短くて、一つの店を何回かに分けて書きましたが、当然すべての店に何度も行っている。でも一軒だけ、二回食べに行ったけれど入れなかった事があって、入らないまま先に取材の申し込みの電話をしてしまった。いっしょに食べ歩きをやっていた相棒が何度も行っているから味は間違いないから取り上げたいと思っていたのだけど、順番を間違えちゃった。そういうのって意外と職人は見ているから。「来てねえじゃねえか」みたいな。19歳のときからずっと行ってなかった?

中原:いや20代は僕はピースボートで世界をめぐっていましたから、その頃は給与も安いし、まさか銀座にてんぷらを食べに行くことありませんでした。ただ、ピースボートを辞めて、フリーライターになった時、築地の取材を頼まれたんです。その時、取材先の穴子屋さんで、「江戸前の穴子の中に、一匹だけ韓国の穴子がまざっていた」と凄く怒っている料理人がいたんです。後から店の人に話を聞いたら、「近藤さんという人で」と。「そうか、あの近藤さんか」と、近藤さんのことをあらためて書かねばと思ったんです。
(太字強調は筆者)

web.archive.org

 続いては、大幅に書き換えられた単行本の記述である。
 ノンフィクション作家の中原一歩は、インタビューをこんなにも書き換えるのだという見本である。現場でしゃべってないことまで書き足すのだ。
(引用元 藤井誠二編著『僕たちはなぜ取材するのか』2017年 太字強調・筆者)

藤井 近藤さんに最初の取材を申し込む前には、何回くらい食いにいったんですか。

中原 二回か三回です。

藤井 自分を印象付けるために何度も食いにいったり、顔を見せに行っているかと、僕は思っていました。僕もホルモンの食べ歩きコラムを四年半ほど「漫画アクション」(双葉社)でやりましたが、たまに言われたのは「うちの店に来たことあんの?」ということでした。
 マンガ雑誌の一ページのコラムだから、一回に各分量は短い。だからひとつの店を何回かに分けて書きましたが、当然すべての店に何度も行っている。でも、二回食べに行ったけれど入れなかった店が一軒だけあって、入らないまま、先に取材の申し込みの電話をしてしまった。
 一緒に食べ歩きをやっていた相棒が何度も行っていて、味はまちがいないから取り上げたいと思っていた。でも、順番をまちがえちゃった。そういうのって意外と職人は見ているから。「来てねえじゃねえか」みたいな話になる。中原さんは、十九歳のときから三〇歳を過ぎて取材交渉をするまで、「近藤」にはずっと行ってなかったのですか?

中原 二〇代の僕はピースボートで世界をめぐっていました。給与も安いし、銀座に天ぷらを食べに行くことなどありえませんでした。ピースボートを辞めて、フリーライター一本で勝負しようと思ったとき、ある雑誌の築地特集に参加することになりました。そこで、築地でもっとも有名な「山五商店」という穴子屋さんを紹介してもらったんです。
 東京を代表する寿司や天ぷらの名店が、こぞって穴子を仕入れるお店です。そしたら、その山五の軒先で、主人と話し込む一人の料理人に遭遇しました。
 それがおもしろくて「江戸前の穴子の中に、一匹だけ韓国の穴子が混じっていた」と言うんです。つまり、その料理人には、穴子の顔で産地がわかるです。(原文ママ)
 あとから、「近藤さんという人で」と。「そうか、あの近藤さんか」と思い、十年前の衝撃を思い出したんです。すぐ予約をして食べに行きました。そこで、十年前と変わらない、いや、格段に進化した近藤さんの天ぷらを目の当たりにしたのです。そのとき、やはり「これは書かずには死ねない」と思いました。
(P25-27)

 ネット配信記事と比べて、単行本になると大幅に書き換えられているのがわかるだろう。単行本では、中原一歩の「僕は19歳の時に初めて食べに行って」という発言が削除され、「二回か三回です」に変わっている。

「二〇代の僕はピースボートで世界をめぐっていました」。
 あれ? 世界を放浪してたんじゃなかったっけ。

「これは書かずには死ねない」とは、マンガみたいでかっちょいい。
「てんぷら近藤」を取材するきっかけとなった「穴子屋さん」での出会いのエピソードは強烈だ。 
 だが、『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社 2013年)を読むと、おや? と思う。
 同書「あとがき」によれば、「てんぷら近藤」を知るのは、「ある雑誌から築地市場に毎日通う料理人を取材してほしいという依頼を受け、仲卸業者に手あたり次第、聞き込みを」したことがきっかけだった。

 それから十年の歳月が過ぎ去った。二十代はアジアなど世界放浪の旅に明け暮れた私は、しばらく食とは縁遠い世界にいた。ところが五年前、文筆家となった私は、ある雑誌から築地市場に毎日通う料理人を取材してほしいという依頼を受け、仲卸業者に手あたり次第、聞き込みを行っていた。
 そこで、複数の業者の口から上がった店の名前が「てんぷら近藤」だったのである。
 この取材をきっかけに、私は改めて食事に出かけた。そして、揚げ場に立つ近藤文夫と再会を果たし、十年の時間を取り戻すかのように空豆をはじめ、季節の点種を片っ端から注文し頬張ったのである。
 噂通り、数ある点種の中でも「野菜」は圧巻だった。そして、何回か店に通ううちに、雑誌の取材とは別に、どうしてもこの職人の謂れを解き明かしたくなった。私は身分を明かし、長期取材をさせて欲しいと申し出たのである。
(P305)

 そのことは、本文でも次のように書かれている。

 そもそも、私が近藤文夫を取材しようと思ったきっかけは、じつは河岸で働く仲買人筋からの情報だった。
 数年前、ある料理雑誌で「築地」の特集を担当していた私は、市場関係者に「毎日、河岸に仕入れにやってくる料理人」を数人紹介してもらった。(中略)
 そして、寿司以外の日本料理の職人で、真っ先に名前が挙がったのが近藤文夫だった。
(同書P142)

 では、藤井誠二に語った強烈な「穴子屋さん」のエピソードは、どうなったのだろう。これは近藤文夫の言葉ではなく、横浜の穴子漁師・斎田さんの言葉として書かれている。

「穴子は正直な生き物だから顔を見ていれば全て分かる。酸素が少ない海で獲れた穴子の顔は苦しそうな表情をしているし、反対に酸素が豊富にある海で、餌もたらふく食べている穴子は穏やかでいい顔をしている。魚の表情で海の状態をうかがい知ることができるようになるには、長年、海に出るしかないんだよね
(同書P115)

中原一歩は「ホラッチョ」ショーンKか?

 今度は、中原一歩がネットで公表している経歴を見ていこう。
 まずは刊行した3冊の著者略歴がすべてちがうという講談社の「現代ビジネス」サイトから。

1977年佐賀県出身。15歳の時に父親の経営する会社が倒産。世にいう「夜逃げ」を経験する。
幼いころから父親との折り合いが悪く、夜逃げの途中で家出を決意(正確には、その時点もう家はなかったが・・・)。
したがって、一年遅れで高校を卒業。

その後、福岡(博多)で屋台を経営するいかす”おやっさん”に拾われ、青春時代の3年間をラーメン屋台のはだか電球の下で過ごす。
20代は世界を放浪する日々。
南極から北朝鮮。アマゾンの源流から空爆下のアフガニスタン、イスラエル・パレスチナなどおよそ80カ国に行った。
この頃から執筆活動を始め、社会や政治などをテーマに、数多くの雑誌やウェブなどに寄稿している。

gendai.ismedia.jp

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「15歳の時に父親の経営する会社が倒産」。中三か高一、どちらとも取れる。
「一年遅れで高校を卒業」という新情報が追加。
 あれれ? 「18歳で上京」してなかった?

「その後、福岡(博多)で屋台を経営するいかす”おやっさん”に拾われ」という長渕剛の歌詞みたいな情報まで追加。
「青春時代の3年間をラーメン屋台のはだか電球の下で過ごす」という「大阪で生まれた女」の歌詞みたいな新情報も追加。
 つまり、高校卒業後の19歳から22歳まで、ラーメン屋台で修業か。

「20代は世界を放浪する日々」(ピースボートで)
 あれれ? いつ上京してきたの?

「この頃から執筆活動を始め」。
 いやいやいや、高校時代に家出をして、地方紙で原稿執筆してたやん。忘れないで!

 続いて、「日本仕事百貨」のサイト(2018年4月開催のイベント告知)。

15歳の時に父親の経営する会社が倒産。世にいう「夜逃げ」を経験する。
屋台を経営するいかす”おやっさん”に拾われ、16歳からの3年間をラーメン屋台のはだか電球の下で過ごす。
したがって学歴はほぼない。
この頃から調理、接客など料理の世界に興味を持つと同時に、雑誌で「食」をテーマにした記事を執筆する。
著書に「最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫」「私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝」など。

shigoto100.com

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「16歳からの3年間をラーメン屋台のはだか電球の下で過ごす」
 またまた新情報。
 これまでは高卒後にラーメン修行をして、18歳か19歳で上京していたのだが。
「したがって学歴はほぼない」。

 でも高校は卒業してんだよね?

 ここで『最後の職人』に書いてあったことを、思い出してもらおう。

 旧鍋島藩の城下町・佐賀県佐賀市に生まれ育った私は、高校時代の数年を玄界灘に面した唐津という港町で過ごした。
(引用元『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』講談社 P302)

「佐賀県佐賀市に生まれ育った私」は、唐津から博多までラーメン修行に通っていたのだろうか?

 おっと、「公益財団法人ニッポンドットコム」のサイトにも経歴が載ってるぞ。

1977年生まれ。ノンフィクション作家。
高校卒業後、博多の屋台で働きながら、地方紙や週刊誌で執筆活動をはじめる。
18歳で上京後は、南極から北朝鮮、アマゾンの源流からアフガニスタンの戦場など世界を放浪。
フリーランスの記者として数多くの週刊誌、雑誌にルポルタージュを発表し続けている。
著書『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』など多数。今夏、日本の高級マグロの代名詞である「大間マグロ」と格闘する人々の姿を描いた『大間マグロの正体』と上梓予定。

www.nippon.com

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 高校卒業。やっぱ学歴あるよね。こうなったら、卒業証明書でも見せてもらおうか。
 18歳で上京してるし、世界も放浪してるし。

 2021年9月15日のTwitterでは、「私の1995年はヤクザのおやっさんが仕切る屋台のラーメン屋で働いていました」だってさ。
 1995年といえば、18歳の時か。上京した後、博多までラーメン修行のために、飛行機か新幹線ででも通ってたのか。

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 中原一歩は、ノンフィクション作家を自称している。
 このような人物が小山田圭吾に取材して、「何が事実で何が虚偽なのか」を確かめたと言っているのである。
 信用できるだろうか?

「経歴ですら嘘をつく人は、必ず他のところでも嘘をついている」と、田端大学塾長である田端信太郎も言っている。


www.youtube.com

ピースボート、SEALDs、和光学園、立憲民主党、太田出版、ロッキン村

 中原一歩は『私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝』(2017年)の本文中では、ピースボートの専従スタッフだったと書いているが、他の著者略歴には一切書いていない。むしろ、隠してきたようだ。

 ピースボートの船旅では、著名人がゲストとして招かれて乗船する。それを「水先案内人」と呼んでいる。
 中原一歩もまた水先案内人として、2013年、2016年夏、2017年春、2018年冬、と乗船している。しかし、パンフレットやサイトで紹介されている経歴には、中原一歩が専従スタッフであったという経歴は書かれていない。
 たとえば、2013年の第80回ピースボート地球一周の船旅では、次のようになっている。

10代後半から料理、接客など食の世界に興味を持つと同時に、執筆活動を開始する。
その後国際NGO職員として世界中を巡る。
2009年からフリーランス活動を再開。
「アエラ」「週刊朝日」「週刊現代」「ダンチュウ」など数多くの雑誌に「時代と人間の輪郭」をテーマにルポを発表。
東日本大震災では発災直後から宮城県石巻市に入って取材活動を行う。
著書に『奇跡の災害ボランティア石巻モデル』『一五歳の扉「大好き」を見つけよう』など。

https://peaceboat.org/wordpress/wp-content/uploads/2013/07/80_mizan_p6-p12.pdf

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 いやいやいや、「国際NGO職員」って何?
 ピースボートの専従スタッフのことを、どうしてこんなふうに書くの?
 ピースボートの専従スタッフが、「水先案内人」だと何かまずいことでもあるの?
 一般の乗船客からすれば、中原一歩のことを外部のゲストだと思うよね、それが狙いなのかな。でも、ノンフィクション作家がこういうことやっていいのかな。
「国際NGO職員として世界中を巡る」
 いやいやいや、世界を放浪してたんだよね。やっぱ、ピースボートの船旅で世界中を巡ってたの?

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 中原一歩は「クイック・ジャパン新装刊号」で記事を書いているから、中立公正という立場でもない。SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)の奥田愛基とはトークイベントもやっている。先の衆議院選挙で当選した小川淳也(立憲民主党)の選挙応援もしていた。
 もとから偏向した立場で書くライターだった。
 
 おおかた、和光学園の名誉挽回をしたい関係者が中原一歩に接触して、あることないこと吹き込んだのだろう。もしくは、小山田圭吾と村上清の禊に利用されたか。全員グルか。
 それで中原一歩は、”本当は小山田圭吾は被害者で、雑誌とネットにハメられたのだ”という陰謀論を信じ込んだ。
 そういう誤った先入観で取材しているから、ありもしない「ロッキン村」の圧力などを妄想し、正義のジャーナリスト気取りで、勝手に大騒ぎしている。
 ぜんぜん知らないジャンルに首を突っ込んで大恥かいたピエロ。おとなしく料理人の取材だけしてりゃよかったんだ。

「和光学園の関係者」「ある同級生」「ある音楽ライター」、こんなものいくらでも作文できる。検証もできない匿名の証言にどれほどの信憑性があるのか。
「ロッキン・カルチャー」「音楽ロッキン村」、私もロックに詳しいが、いずれも初めて聞く言葉だ。
 中原一歩は次のように語っている。
(引用元「なぜ小山田圭吾は『週刊文春』での独占インタビューに応じたのか?“音楽ロッキン村”問題を今考える」Business Insider Japan Oct. 14, 2021, 11:05 AM)

『ロッキング・オン』は今や大規模な音楽フェスを運営する会社でもあり、音楽業界では非常に力を持っている。いわば業界に「ロッキン村」を作ってきました。
 1990年代以降「音楽情報誌ではない」と打ち出し、サブカルチャーや社会問題なども取り上げて他誌との違いを鮮明にし、ロッキン・カルチャーというカルチャーも作り上げてきました。小山田氏も何度も誌面に登場させた。

 乗っかった本人に責任もあるけれども、取材に協力した小山田氏に何か問題が起きたとき、掲載した雑誌の編集部や編集者は掲載した責任があると同時に、取材を受けてくれた人も守らなければいけないと思います。

 あの記事が出た後に、ある音楽ライターからはこっそりと「インタビューをしてくれてありがとう」と伝えられました。音楽情報誌は数も少なく、村的なコミュニティだから、音楽ライターはロッキング・オンに歯向かうような記事は書けない。書くと干されてしまうから。
 僕はたまたま音楽業界とは縁がなかったから書けたのだと思います。


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 小山田圭吾は「お詫びと経緯説明」でこう説明している。
「当時は、自分に対してなんとなく定着してしまったイメージを破り、露悪的なキャラクターを演じることで世間からの見られ方を変えようとしていました。過剰で自虐的なリップサービスを必要以上に行うことで、世間との距離を取ることを意識していました」
 つまり、自分で演出したのである。

 こべにみたいなオリーブ少女に「小山田くん」「おやまっちゃん」と軽くポップな見られ方をされるのが心の底から嫌だったのだ。洋楽のサンプリングにすぎない音楽を「渋谷系」などと言って、知的なおしゃべりしながら、素敵ライフを満喫するスノッブな豚どもを、下品のどん底に叩き堕としたかったのだ。id:kobeni_08
 そうしたものへのカウンターとして根本敬に感化された小山田圭吾は、自己演出として悪趣味・鬼畜系の露悪的なキャラクターを演じた。その結果、露悪的なキャラクターがネットで広まった。
 事実はそれだけである。

 中原一歩さんよ。まんまとハメられたな。
 それで、あんたにデマを吹き込んだのは誰だ? 本当の悪人はそいつだ。
「週刊文春」に今度は、「中原一歩【独占告白】 私をハメた悪人ども」という手記でも発表してくれ。 

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中原一歩は食品偽装の料理屋か

 物書きに学歴は関係ない。

 阿部和重も金原ひとみも西村賢太も、最終学歴は中卒である。ただし、彼らは小説家だ。書いた小説がおもしろければ、それでいい。
 苦労人であることは誇りである。隠す必要はない。ただし、それが事実であれば、の話だが。

 中卒を高卒と偽ることは学歴詐称である。高卒なのに「学歴はほぼない」というのも詐称である。
 やってもいない苦労を、やったと話を盛るのは経歴詐称である。世界一周クルーズと「世界を放浪」はぜんぜんちがう。

 すべて公開情報に基づいて検証してきた。
 真に驚くべきは、こんな矛盾だらけの経歴を、平然と公表できるその神経である。
 何かが麻痺しているのではないか。

 ノンフィクション作家には、事実を報道する使命がある。
 中原一歩といえば、小川淳也(立憲民主党)の同伴者として共著を出し、政治にも関わる公人だ。

 編集者に守ってもらった結果が、これか。
 これでもまだ編集者に守ってもらえると思っているのか。

 致命的であるのは言うまでもない。
 中原一歩の得意分野である料理人の世界に例えれば、食品偽装をしている料理屋である。

 お客(読者)を、だましてきたことになりはしないか?
 お客(読者)を、裏切ったことになりはしないか?
 中原一歩さんよ。事実って、何かね?

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