なぜ中原一歩はピースボートの経歴を隠すのか

徹底追及第2弾! 中原一歩の経歴詐称をメッタ斬り!

 衆議院選挙で激戦となった香川1区。
「王国の主」と呼ばれる初代デジタル相の平井卓也を破ったのは、なんと立憲民主党の小川淳也だった。
 小川淳也はその勢いのまま、枝野幸男の後任を選ぶ立憲民主党の代表選に立候補。
 晴れて代表となり、政権交代を果たせば、ついに念願だった総理大臣の椅子を手に入れる。

 時の人である小川淳也。
 じつは、2020年9月14日放送のテレビ番組「報道1930」に出演した際、自民党の菅義偉新総裁に対して「生い立ち」を明らかにすべきだと発言して、物議をかもした。
 

「どういう人間かは、どういう生い立ち、どういう環境かに規定されるんですよ」
「虚像を貼ってるなら剥がさなきゃいけない」
「盛ったり、ウソをついたり、あるいは伝説をことさらに作るのは間違ってる」

 小川淳也の同伴者として健筆をふるっているのが、中原一歩というノンフィクション作家である。
 衆院選を見越して出版した『本当に君は総理大臣になれないのか』は大評判で、小川淳也の当選を後押ししたと言われている。

 中原一歩は、今やこの国の政治をも動かす公人だ。
 こべにみたいな、こたつライターとは訳が違う。id:kobeni_08

 正義のジャーナリストとして飛ぶ鳥を落とす勢いの、この御仁。
 どういう思いで、小川淳也の発言を聞いていたことだろう。

 まさかそれから一年後、自分の虚像が剥がされるとは、夢にも思わなかったはずだ。
 いったい中原一歩に何が起きているのか?

 なんと経歴詐称を暴露され、ジャーナリスト生命の危機に瀕しているのだ。

 中原一歩が「週刊文春 電子版」と「ビジネス・インサイダー・ジャパン」という大手メディアの権力を使って、当ブログのことを、小山田圭吾いじめ騒動の元凶だと誹謗中傷したのがきっかけだ。
「文責不明」の「まとめサイト」だと、散々こき下ろし、見くだし、バカにしたのだった。

 だが、おとなしく黙っている相手ではなかった。

 売られた喧嘩は買ってやる、と猛烈な反撃を始めたから、さあ大変――。

www.j-cast.com


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koritsumuen.hatenablog.com

古市憲寿と中原一歩のピースボート

 今はワイドショーのコメンテーターとしてお茶の間に知られる古市憲寿だが、じつは社会学者である。
 東京大学の大学院生の時にピースボートに乗船して参与観察を行い、それを修士論文とした。さらにそれを新書に書き直したものがデビュー作の『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』(光文社新書 2010年)である。
 もとは学術論文であるものの、それまで謎に包まれていたピースボートの実態を伝えるすぐれたルポルタージュとなっている。

 その翌年に、中原一歩は『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』((朝日新書 2011年)でデビューする。
 タイトルからはわからないが、じつはこれもピースボートについて書いた本である。
 この二冊を読み比べることで、中原一歩というノンフィクション作家の虚像を剥いでいく。

社会学者 VS ノンフィクションライター

 刊行当時の両名の経歴を確認しておこう。いずれも著作の奥付にある著者略歴からの引用である。

古市憲寿(刊行時25歳)
1985年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。
現在、東京大学大学院総合文化研究科博士課程。慶應義塾大学SFC研究所上席所員(訪問)。
有限会社ゼント執行役。専攻は社会学。大学院で若者とコミュニティについての研究を進める傍ら、コンサルティング会社でマーケティング、IT戦略立案等に関わる。

中原一歩(刊行時33歳)
1977年、佐賀県出身。ノンフィクションライター。
高校時代に家出をして、ラーメン屋台で調理・接客修業をする。同時に、地方紙などで「食と地域文化」の原稿を執筆。
上京後、世界各地を放浪。アマゾンから南極、アフガニスタンの戦場まで訪問国は80カ国に及ぶ。
現在、「人物」「世代」「環境」「食」をテーマに「AERA」などの週刊誌で執筆活動中。

 古市憲寿は東大の大学院でアカデミックな訓練を受けており、元論文は修士論文として受理されていることからも、研究論文としての公平性と客観性は担保されている。
『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』(以下『希望難民ご一行様』)の「あとがき」には、この本の成立事情が次のように書かれている。

 本書は東京大学大学院総合文化研究科に提出・受理された修士論文『「承認の共同体」の可能性と限界:ピースボートに乗船する若者を事例として』(2009年12月提出)に対して、原形をとどめないくらいの加筆・修正を加えたものである。修士論文はもう少しまじめに書いた。
(P278)

 中原一歩の経歴は、前回の記事で検証したように、あやしいものである。
 何より問題なのは、この本でピースボートのボランティア活動を礼賛しておきながら、自身のピースボート専従スタッフだった経歴を公表していないことである。公平性と客観性は担保されておらず、これだけでジャーナリスト失格である。
『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』(以下『奇跡の災害ボランティア』)の「まえがき」には、この本の成立事情が次のように書かれている。

 私は週刊誌『AERA』の派遣記者のひとりとして、大震災発生直後から石巻市に入って取材を続けていた。当時、巨大津波によって機能麻痺を起こしていた太平洋沿岸部では、災害ボランティアの受け入れに前向きな姿勢を示す自治体はなかった。
 そんな中、石巻だけは一貫してボランティアの必要性を訴え、早急にその派遣と受け入れのための独自の準備を開始していた。
 私はその取り組みを最初の段階から取材し、5月23日号の『AERA』に「ボランティアの理想と現実 熱意を形にする仕組み」と題して編集部のもうひとりの記者と共に6ページの記事を書いた。
(P5)

 もとになった「AERA」の記事を確認すると、「編集部のもうひとりの記者」とは田村栄治である。フォトジャーナリスト広河隆一が発行人だった『DAYS JAPAN』に関わり、のちに広河隆一の性暴力を「週刊文春」で告発した記者である。

https://www.jen-npo.org/jp/concept/pdf/20110523_aera.pdf

bunshun.jp
www.businessinsider.jp

ピースボートは「奇跡の災害ボランティア」

 中原一歩『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』とは、どういう内容の本であるか。
 東日本大震災に見舞われた石巻市では、多くのボランティアが活躍した。その中心となったのがピースボート災害支援センターである。
 タイトルの「奇跡の災害ボランティア」とは、ピースボートのことである。
 ようするにピースボートのPR本である。発売時(2011.10.17)から現在までピースボートのブログで紹介されている。

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 それが悪いわけではない。
 この本でも参考文献として挙げられている『こんなに素敵なピースボート! 』(ユビキタスタジオ)という本は、ピースボートが出している。だからPR本であることは読者にも明らかである。
 ところが、中原一歩はノンフィクションライターという肩書で、これをルポルタージュとして発表しているのだ。自身のピースボート専従スタッフだった経歴には一言も触れないで。
 読者を欺く行為であり、ルポとして不当なのは、言うまでもない。

ピースボートってそもそも何だろう

 中原一歩は『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』の中で、ピースボートを次のように説明している。

 ピースボートは、もともと辻元清美(現:衆議院議員)らが立ち上げた団体である。1996年の政界進出以降、辻元はピースボートの運営に一切関わっていない、
 しかし、ピースボートは憲法9条を世界に広めるための「9条世界会議」を主催したり、沖縄県名護市辺野古の普天間米軍基地の代替施設に反対したりするなど、明らかに「政治的主張」のある団体であった。
(『奇跡の災害ボランティア』P69)

 ピースボートは1983年、早稲田大学の学生だった辻元清美ら数名の若者が創設した、国際交流を目的としたNGOである。
 当時のスローガンは「過去の戦争を見つめ、未来の平和を創る」。日本軍のアジアへの「侵略」が「進出」に書き換えられたという第二次教科書問題をきっかけに、学生たちが客船をチャーターして東西冷戦下のアジアを訪問したことが始まりである。
 ピースボートが日本中の注目を浴びたのは、企業ではない民間団体が初めて「世界一周の船旅」を実現させたことだ。1990年、当時20歳だった山本も、乗客としてこの船旅に参加した。そして、帰国後にピースボートの専従スタッフとなる。
 現在、一般社団法人「ピースボート災害ボランティアセンター」代表理事を務める山本だが、普段は世界各地を飛行機で飛び回る「先遣隊」「先乗り」という、長期の船旅ならではの仕事人という顔を併せ持つ。
(同書P154)

 古市憲寿の『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』では、もっと詳しいことがわかる。

 ピースボートプロジェクトのそもそものきっかけは、小田実らが企画した「日本海・アジア平和の船」である。当時の三大社会主義国(ソ連、北朝鮮、中国)への就航を目的に、商船三井から「にっぽん丸」をチャーターした。しかし北朝鮮への渡航や、チャーター費用等の問題が発生し、その企画は頓挫する。

 この時「平和の船」事務局メンバーの一人で、商船三井との交渉にあたっていたのが辻元清美である。辻元は中学生時代に小田実の『何でも見てやろう』を読んでおり、早稲田大学に入学後、小田が事務局を務める「韓国民主化支援緊急世界大会」(ASKOD)の事務局メンバーとして活動していたこともあった。
『ピース・ボート出航!』には「平和の船」若手事務局メンバーの以下のような会話が、ピースボート出航のきっかけとして紹介されている。

「三井商船のあの船、どうせ余ってるんや、みんなで船、出そか」
(『希望難民ご一行様』P80)

 こうして渡航先を変更し、クルーズが始まった。父島、硫黄島、グアム、サイパン、テニアン島を巡る2週間の船旅。定員500人として募集したが、159人しか集まらなかったという。

 こうして、強い政治性を持った団体出身の若者たちの「ノリ」によってピースボートはスタートした。
(『希望難民ご一行様』P81)

 ピースボートはその後も、年一回のペースでショートクルーズを行い、規模を徐々に拡大していく。そして、1990年にはついに世界一周クルーズを実現する。
 だが、古市憲寿によれば、ピースボートは普通の観光船とは違うのだという。そのことを、「ピースボートは歴史を書き換える」と表現している。発表媒体によって書いていることがコロコロ変わるのだ。まるで中原一歩の経歴みたいに。
 ピースボートは政治性を消すことで、クルーズの規模拡大を行ってきた、と古市憲寿は分析する。
『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』から引用する。

「ピースボートって何かの政治団体なの?」僕がピースボートに乗ったことを話すと何回か聞かれた質問だ。政治団体の定義にもよるが、少なくとも創立当初は「政治団体だった」と言っていいと思う。だが今はどうかというとすごく答えづらい。その理由を、「政治性」という観点からピースボートの歴史を紐解くことで、見ていきたい。
 1983年にたった159人の参加者を乗せた2週間のアジアクルーズから始まったピースボートは、現在では1000人規模の乗船者を抱えた世界一周クルーズを一年に3回実施するまでの事業体になった。この事業規模の拡大は、同時に政治的理念の実現という「目的性」=「政治性」を漂白する歴史でもあった。
 クルーズの名称を見ると、当初は「過去の戦争を見つめ未来の平和を創る船旅」「検証航海・アジアの原点――過去を忘れないために」とアジアにおける日本の戦争責任追及という血気盛んなものが多かった。
(P88-P89)

 政治性の消失ともいえる現象が始まったのは1990年ごろである。はじめての世界一周クルーズ名は「クリーンでピースな地球をつくるガイアの船」。あれ。戦争の話はどこに行ってしまったのだろう。当時流行していた環境問題こそ想起されるが、過度なイデオロギーの発信を避けるネーミングである。
 またパンフレットには「ピースボートは非営利団体です。いかなる政治団体、宗教団体からも独立しています」と添えられている。
(P89-P90)

 さらに1998年以降は、クルーズ名もただの「地球一周の船旅」で統一される。現在のピースボートのパンフレットはあくまでも「世界一周の船旅」を宣伝したものであり、そこに政治性は感じられない。比較的メッセージ性の強いリーフレットでも、強調されているのは「地球市民」や「平和」という漠然とした言葉である。
(P91)

 この戦略、マーケティング的には当然だろう。今となってはピースボートの始まりが、ただ船が余っていたからなのか、教科書問題への熱い情熱なのか、やじうま精神なのか、そんなことはどうでもいい。大きな船をチャーターして、長期間のクルーズをするとなれば、様々な趣味や嗜好を持った人に集まってもらわなければならないからだ。
「過去の戦争を見つめ未来の平和を創る船旅」よりも、「地球一周の船旅」や「世界平和の旅」の方が、多くの人が集まるに決まっている。それには「過去の戦争」といういかにも左翼が好きそうな言葉ではなくて、「地球」や「平和」という「いいことを言っているように聞こえるが、実は何も言っていない」言葉の方が都合がいい。
(P95)

ボランティアをやって政治性を消そう!

2010年8月20日 古市憲寿が『希望難民ご一行様』を刊行。
2011年3月11日 東日本大震災が発生。
 同年4月19日 一般社団法人「ピースボート災害ボランティアセンター」設立。
 同年5月23日号 中原一歩が『AERA』に「ボランティアの理想と現実」を発表。
 同年10月30日 中原一歩が『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』を刊行。

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 古市憲寿の本によって「秘密」を暴露されたピースボートは、あわてたはずだ。
 その翌年、東日本大震災が発生する。この時、すぐさま現地に乗り込んでボランティアを始めたのがピースボートのメンバーたちである。
 その組織力で一般のボランティアを束ね、行政とも交渉し、活躍する。こうして震災の翌月には「一般社団法人ピースボート災害ボランティアセンター」が設立される(2019年10月に団体名称を「ピースボート災害支援センター」へ変更)。

「やらない善よりやる偽善」という言葉が示すように、その活動自体は称賛されるべきものだ。
 だが、これを抜かりなくPRに利用するのも、ピースボートのしたたかなところだ。

 中原一歩は「週刊誌『AERA』の派遣記者のひとりとして、大震災発生直後から石巻市に入って取材を続けていた」と書く。そして、5月23日号の『AERA』に「ボランティアの理想と現実 熱意を形にする仕組み」という記事を発表する。
 この記事では他のボランティア団体との公平を期すためか、ピースボートの活動がことさら強調されてはいない。「東京のある団体」と書かれている箇所もあれば、メンバーの肩書も「国際交流NGO『ピースボート』の山本隆・共同代表」や「ピースボートの上島安裕」のようにあっさりしたものだ。

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 ところが、この記事を基にした中原一歩の著作『奇跡の災害ボランティア「石巻モデル」』になると、「第6章 災害ボランティアは企画力」がまるまるピースボートの紹介になっているほか、メンバーの肩書も「社団法人ピースボート災害ボランティアセンター代表理事・山本隆」(P38)、「ピースボート災害支援コーディネーターの上島安裕」(P94)というように仰々しくなっている。
 前述したように、これらの社団法人は東日本大震災(3.11)の翌月(4.19)に設立されたばかりである。
 さらに巻末には「一般社団法人ピースボート災害ボランティアセンター」の連絡先まで掲載されている念の入れようだ。
 本文の記述も次のように、あきらかにピースボートを礼賛している。

 小林も山本同様、この大規模震災を克服するためには、ボランティア力を結集し、「社協とNGOが緩やかな合意の上に連携する仕組み」が必要だと考えた。
 この時、石巻社会福祉協議会の阿部由紀総務係長は、山本らピースボートのスタッフの協力を歓迎しながらもその働きぶりを観察していた。
「社協の限界が、災害救援の限界であってはならない。目の前に横たわる石巻の被害状況が、それを許さないことは十分に理解していました。ただし、誰にでも、どの団体にも仕事を任せられるとは言えない。当然彼らはよそ者であって、この震災の終結まで責任を持つのは地元の自分たちであるという自負もありました」
 しかし、石巻入りから2日目の夜、山本は社協の阿部係長に対して、この災害がとりあえずの収束を果たすまで、ピースボートはこの場所に留まり協力すると明言した。
「いや助かりましたよ。本当に手が回らない状況で、私たちの立場を尊重したうえでより必要な支援を提案してくれる。これならば、いっしょにやれるなと思いました」と、阿部は振り返る。
 こうして、山本らはボラセンに集まるNGOなど団体の受け入れを任されるようになる。
(『奇跡の災害ボランティア』P56-P57)

 発足当時からピースボートの支援者だったジャーナリストの故・筑紫哲也は、そんな行動をするピースボートの若者たちを「新人類」と呼び生涯をかけて応援した。
(同書P157 太字強調は筆者)

「新人類」とは、ピースボートの若者たちを意味する言葉ではない。当時「朝日ジャーナル」の編集長だった筑紫哲也が『新人類図鑑』(朝日文庫)で辻元清美と対談した程度のつながりしかない。
 ノンフィクションライターが現地を取材し、事実をありのままに書いたのならそれでもいいだろう。だが、中原一歩は、ピースボートの専従スタッフだった経歴を隠してこれを書いたのだ。
 これを御用ジャーナリストと呼ばずして、何と呼ぶか。

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専従スタッフは安月給で、負債の責任まで負わされる

 中原一歩がピースボートの専従スタッフだったことを明かすのは、2017年1月の『私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝』(文藝春秋)の本文中である。
 また、同年8月にも、藤井誠二による編著『僕たちはなぜ取材するのか』(皓星社)の中で、「長らくピースボートの専従スタッフをやっていた」ことが明かされている。
 だが、他の著者略歴には一切書いていない。むしろ、隠してきたようだ。

 ピースボートの専従スタッフとは、何をやる仕事なのか。
 これも、古市憲寿が『希望難民ご一行様』の中で説明している。

 ピースボートを運営するのはNGOピースボートの専従スタッフたちだ。いわゆるフルタイムのスタッフのことであり、月給はだいたい15万円から20万円程度。ボーナスはない。自ら志願する場合と、ピースボート側から誘われる場合があるが、基本的にはピースボート乗船経験者がスタッフになる。20代が多い。
 専従スタッフになるためには一部の職種を除いて「責パ(責任パートナー)」になる必要がある。「責パ」とはピースボートの財政面や運営面における責任を負うスタッフのことだ。NGОピースボートは、スポンサーを持たない非政府組織であるため、彼らの出資が必要なのだ。推薦人が3人必要で、5万円の出資金に加えて、ピースボートが赤字になった際には、その負債を頭割りで支払う義務が生じる。たとえば1995年には一億円の赤字が発生し、責パ一人当たり180万円の支払いをしたという。こんなの、ピースボートへの愛がなくちゃできない。
 ただし、専従スタッフになれたとしても、それが低賃金の長時間労働であることには変わりはない。ピースボートセンター間の転勤のため全国を転々とすることが多いので、ルームシェアをしているスタッフも多い。寮ではないが、代々ピースボートが借りている場所があるので、そこに男女問わず3人から5人程度で同居することが多いという。近くにピーセンがない若者がボラスタをしたい場合、このスタッフの家に居候をする場合も多い。
 20代の女性スタッフの一人はピースボートでの仕事を、「安月給でボーナスもない仕事。貯金をすることもできない。結婚して子どもを産むなんてできるはずがない」と笑いながら語る。
 それでも彼女がピースボートを続ける理由は「楽しいから」だ。「いろんな人と出会える。それで自分が成長できる。それにはすごい感謝してる」お金のためというよりも、完全に「やりがい」や「夢」のために彼らは働いているのだ。
 大学時代は囲碁部だった教育社会学者の本田由紀ならば、「やりがいの搾取」と言って憤慨するのかもしれない。
(P109-110)

 中原一歩がジャーナリストなら、こうした実態を自ら暴いてよさそうなものだが――。

そこら中でピースボートのポスターを見かける理由

 ピースボートは専従スタッフだけではなく、多くのボランティアによって支えられている。
 中原一歩は『奇跡の災害ボランティア』の中で、次のように書いている。

 東京都新宿区高田馬場にある山本のオフィス「ピースボートセンターとうきょう」を訪れると、ピースボートの専従スタッフとは別に、およそ50人の「ボランティアスタッフ」が忙しそうに何やら手を動かしていた。
 元居酒屋を改造したという100坪のオフィスの壁には、「今月の街頭募金の成果」や「今必要としている援助物資」と書かれた手書きのポスターが、寄港地で撮った写真やピースボートの活動が掲載された新聞記事などに交じって張り出されている。
「オフィス」というよりも「秘密基地」。「仕事場」というよりも「文化祭の準備をしている部屋」のような賑やかな雰囲気の中、学校帰りの大学生に混じって、大手証券会社をリタイヤしたという団塊世代の男性が机に向かって作業をしていた。
 彼らはボランティアスタッフで、将来的にピースボートの世界一周の船旅に乗船を希望しているという。
 この「ボランティアスタッフ」制度は、設立当初から続いているユニークな制度で、働いた時間に応じて、世界一周の船旅の乗船費用が免除される。
 例えば、ピースボートを広く世間に知ってもらい、一人でも多くの人に世界一周の船旅に参加してもらうための宣伝ポスター張りも仕事の一つだ。確かに、街頭に張られているピースボートの「世界一周」のポスターは日本各地で目に留まる。
 私も彼らに同行して取材を試みたが、街なかの商店を飛び込みで訪問し、了承を得た上で店の外にポスターを掲示させてもらう。しかし、断られる確率も高く、街を半日歩いて50枚掲示できれば良い方だという。週末などは、全国で200人を超える人がこのポスター張りに参加しているというから驚きだ。
(P159-160 太字強調は筆者)

 いやいやいや、「驚きだ」もなにも、専従スタッフだった中原一歩先生は、よくご存じのはずでしょう。平然とこんなことが書ける中原一歩先生こそ、驚きだ。

 ボランティアスタッフは通常「ボラスタ」と呼ばれる。だが、彼らは無償ではない。仕事をすればピースボートの乗船賃が割引される仕組みになっている。ただし現金化はできず、ピースボートに乗る以外に使い道はない。
 これについても、古市憲寿は『希望難民ご一行様』で詳しく書いている。

 ピースボートセンターでの有償ボランティアには、ポスター貼りと内勤の二種類がある。
 街でポスターを3枚張るごとに、乗船賃1,000円分が割り引かれる。内勤は時給800円換算で、ポスターにテープを貼る、ハガキを付けるなどの仕事をする。
 乗船賃を99万円と考えた場合、単純計算でポスターを3,000枚貼ればピースボートに乗れてしまうのである。
 ほとんどの若者はポスター貼りを中心に活動する。内勤は時給換算のため、ポスター貼りに比べて乗船賃を稼ぐのが難しいからだ。
 古市憲寿は次のように述べている。

 初心者講習を経たら、ポスター貼りは基本的に一人で行う。街を歩き店舗に許可を取り、ポスターを貼るという工程の繰り返しである。この時、きちんとポスターが貼られたかを後からスタッフが確認できるように、店舗側には必要情報を記入してもらう。
 あるボラスタ経験者によると、「国際NGОピースボートのボランティアスタッフ」と自己紹介をすると許可をもらえる確率が高くなったという。まさかポスター貼りが船賃割引に換算されているとは思われないため、「NGО」や「ボランティア」「世界平和」という言葉がフックとなり、店舗の人に好意的な印象を持たれることが多いらしい。
(『希望難民ご一行様』P105-106 太字強調は筆者)

 ボランティアでのポスター貼りという行為ひとつを見ても、中原一歩が書くのと、古市憲寿が書くのとでは、ずいぶん印象がちがう。
 クルーズに行きたい若者たちは、少しでも乗船賃を浮かせようとポスター貼りをがんばる。
 その際、「NGО」や「ボランティア」「世界平和」という言葉を使って店の主人と交渉する。店の主人とすれば、若者たちが純粋なボランティア精神でやっているのだと思い、善意で協力する。その結果、街中にピースボートのポスターが貼られる、というわけだ。
 こうした仕組みを考え、すべて取り仕切っているのが、ピースボートである。

 ピースボートの船旅では、著名人がゲストとして招かれて乗船する。それを「水先案内人」と呼んでいる。
 中原一歩もまた水先案内人として、2013年、2016年夏、2017年春、2018年冬、と乗船している。しかし、パンフレットやサイトに、中原一歩が専従スタッフであったという経歴は書かれていない。
 たとえば、2013年の第80回ピースボート地球一周の船旅では、次のようになっている。

10代後半から料理、接客など食の世界に興味を持つと同時に、執筆活動を開始する。
その後国際NGО職員として世界中を巡る。
2009年からフリーランス活動を再開。
「アエラ」「週刊朝日」「週刊現代」「ダンチュウ」など数多くの雑誌に「時代と人間の輪郭」をテーマにルポを発表。
東日本大震災では発災直後から宮城県石巻市に入って取材活動を行う。
著書に『奇跡の災害ボランティア石巻モデル』『一五歳の扉「大好き」を見つけよう』など。

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https://peaceboat.org/wordpress/wp-content/uploads/2013/07/80_mizan_p6-p12.pdf


 中原一歩がここで「国際NGО職員」を名乗るのは、ポスター貼りの若者たちが「国際NGОピースボートのボランティアスタッフ」と自己紹介をするのと同じ理由であろう。印象操作である。
 クルーズの集客のためには、著名な大物ゲストを呼びたい。だが、当時の中原一歩にはそれほどの知名度はない。まして、ピースボートの専従スタッフをやっていた身内である。そんな人がゲストに来ても誰も喜ばない。

 そこで、「国際NGО職員として世界中を巡る」と経歴を盛ったのだ。これが本の奥付では「上京後、世界各地を放浪。アマゾンから南極、アフガニスタンの戦場まで訪問国は80カ国に及ぶ」となる。
 しかしこれは、信義に欠ける行為である。

 ノンフィクション作家には、事実を報道する使命がある。
 ピースボートにとって不都合な事実は報道しないというのは、隠蔽である。
 たとえば古市憲寿は、次のように辛辣な事実を書いている。

 ピースボートは安価なだけあって、いつも廃船寸前の船をチャーターしてくる。
 今回も、出港から1カ月も経たずしてエンジンが壊れ、スケジュールが大幅にずれ込んだ。船内でも漏電、水没、エレベーター故障などの事故がクルーズ期間を通して相次いだ。さらに7月には船体に穴があき、アメリカの湾岸警備隊にニューヨークで拿捕され、船の修理が終わるまでアメリカからの出国を許されなかった。
(『希望難民ご一行様』P161)

「9条ダンス」と「お郷ことばで憲法9条」

 スタート当時、政治団体だったピースボートはその政治性を消すことで規模を拡大してきた。では、このままただの観光船やボランティア団体となるのだろうか。
 決してそうではない、と古市憲寿は述べている。2002年には、外務省からの自粛要請を退け、日本・ロシア間の領土問題となっている国後島へ渡航。また北朝鮮へも数回にわたり渡航している。
 クルーズの船内では、明確な政治的主張を持ったイベントが数多く行われている。
 その模様を、『希望難民ご一行様』から引用する。 

「9条ダンス」とは、憲法9条(平和主義についての条文)の理念をヒップホップのリズムに乗せて表現したダンスだ。62回クルーズの前から準備され、クルーズには9条ダンスを教えるダンサーがスタッフとして乗船していた。練習はほぼ毎晩のように行われ、一番多い時では100人ほどが9条ダンスに参加していた。
 この9条ダンスは機会があるごとに披露され、船内でのイベント時はもちろん、パレスチナ難民キャンプなど各寄港地でも披露され、ダンスと同時に憲法9条を守るための署名も呼びかけていた。
「お郷ことばで憲法9条」は乗船者が各方言で憲法9条の条文を朗読するというイベントだ。「憲法は国家の基本となる法律」と不正確な朗読からはじまり、「天皇か国民か」「軍隊を保持するか放棄するか」について「どちらを選びますか!」と大声で選択を聴衆に迫る。
 制限された選択肢を示して決定を迫るというよく新興宗教や自己啓発セミナーで行われる手法だ。
 そして各都道府県出身のパッセンジャーが「お郷自慢」と「憲法9条」を同時に披露する。たとえば岐阜県の出身者だったら「岐阜は日本のへそ。高山ラーメン、白川郷、下呂温泉。岐阜はいいところやなあ。そんなところが戦争でなくなったら嫌やな。そこで大事なのが9条」といった具合だ。そして、方言による憲法9条の朗読が続く。
 ただし、このようなピースボートの政治性に、パンフレットを見たり、説明へ行くだけでは気づかない人も多い。実際、船内で出会った元自衛官である60代の男性はピースボートに実際に乗るまではピースボートの来歴や政治的立場をまるで知らなかったという。

「僕はただ世界一周がしたかっただけだよ。まさかこんな船だとは思わなかった。乗船した日の挨拶で吉岡って奴がピースボートは昔万景峰号をチャーターしたことがあるって得意げに話しただろう。それでおかしいと思ったんだ。そして講演をしているのが朝日新聞の記者だろう。あとは9条ダンス。まさかこんな左翼的な場所だとは思わなかった」
(『希望難民ご一行様』P97 太字強調は筆者)

 なお、この本による影響か、現在ではもう「9条ダンス」は踊らなくなったようだ。これもまた政治性の漂白だろう。


www.youtube.com

情報統制は左翼のお家芸


 古市憲寿が乗船したのは、2008年5月の第62回「ピースボート 地球一周の船旅」である。したがって『希望難民ご一行様』のルポには古くなっているところもある。だが、中原一歩が専従スタッフとして働いていたのは、それ以前のまだ政治色が強かった時代のピースボートである。

 先に挙げたひろゆきとの対談動画で古市憲寿は、”船旅を終えた若者たちのほとんどは、その後政治運動には一切関わらなくなる”と語っている。
「(船を降りてから)誰も9条のことを語らないし、世界平和とかどうでもよくなっている」
 その意味では、ピースボートによる「洗脳」は失敗だ。それでも、スタッフになりたいという者は2人くらい出る。
「何百人の若者のうち、2人くらいは洗脳に成功してるんじゃないですかね」
(引用元「オルグはつらいよ~現代の若者にピースボートは効き目がなかった」youtube11:27頃から)

「長らくピースボートの専従スタッフをやっていた」中原一歩は、その「洗脳」された若者の一人だ。

 中原一歩は「AERAdot.」を中心に、政治について多くの記事を書いている。立憲民主党の小川淳也を書いた最新刊『本当に君は総理大臣になれないのか』は、小川淳也の衆院選当選を後押ししたと言われている。
 今や、この国の政治の行方を左右させるほどの影響力を持った公人だ。
 当然、その政治的背景は問われなければならない。

 中原一歩がピースボートから「左翼思想」と「情報統制」を学び、ノンフィクション作家になったのであれば、恐ろしいことである。
 古市憲寿は次のように書いている。

 ピースボートは公式に憲法9条の改正に反対し、「愛国心」教育を盛り込んだ改正教育基本法に反対という立場を採る。
 過去のクルーズでもワールドカップなどで日の丸を掲げる若者たちのナショナリズムを危惧する企画が開催されたことがある。62回クルーズの船内新聞でも、挿絵として日の丸を描くことがスタッフによって禁止されていた。このようにピースボート運営者の立場は、いわゆる「左翼」に近いものだと考えられる。
(『希望難民ご一行様』P184)

「箱庭」を最も象徴しているのが船内新聞だろう。
 船内のほぼ唯一の情報媒体である船内新聞には情報統制が敷かれており、ピースボートにとって少しでもマイナスな記事が掲載されることはない。たとえば船体トラブルによって船内が騒然としている日でも、新聞の記事は、「海の日の由来」「自主企画レポート」など、まるで船に何事も起きていないかのようなものばかりだ。
 いやいや、船に穴があいてるのに「今日は海の日」はないでしょ。
 新聞制作に関わっていた人の話によると、他にもいくつものタブーがあったそうだ。
 たとえば日本が関係する記事で日の丸を挿絵として挿入すること。他の国の国旗はいいらしい。また、アテネでは乗客の間でスリ被害が多発したらしいのだが、それに注意を呼びかける記事もボツにされたという。
 笑っちゃうのは、そんなピースボートが船内でメディアリテラシーに関する講座を開いていることである。イラク戦争におけるマスコミ報道などを題材として、メディアの情報にいかにバイアスがかかっているかを教えていた。
 もし乗船者たちに本当にメディアリテラシーを教えたいのであれば、船体トラブルこそが格好の教材になるはずである。たとえばニューヨーク出航の延期であれば、地元紙にも取り上げられているのだから、船会社の言い分、ピースボートの言い分、地元紙の伝え方を素材にすれば、実感を持ったうえでメディアについて教えることができるだろう。
 しかし船体トラブルは教材になるどころかあくまでも「なかったこと」として処理される。メディアリテラシーの問題も、所詮自分たちとは関係のないことだから簡単に批判することができるが、その矛先が自分たちに向けられたとき、それまでの威勢の良さは消えてしまうのである。なんせ、「今日は海の日」だ。
 新聞局長をしていたスタッフ(25歳、♂)によれば、この船に乗っている様々な立場の人の気持ちをできるだけ害したくないというのが検閲を行う理由だという。彼は「悔しい」が「正直、怖い」とその気持ちを打ち明けてくれた。ピースボートは「安全」のために「自由」が犠牲になっているコミュニティの典型例ということができるだろう。
(同書P212-213)

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中原一歩劇場 自分語りの猿芝居

 ジャーナリストは不偏不党、中立公正であるべきだ。しかしなかなか、そうはいかない。

 同じ政治家を取材しても、朝日新聞の記者と産経新聞の記者とでは論調が異なる。だが、記者の所属が明示されていれば、読者はそれを念頭に置いて記事を読み、判断することができる。
 中原一歩はピースボートの専従スタッフだった経歴を隠して、ピースボートのPR本を書いた。この一点だけでも、もはや報道にたずさわる資格はない。

 中原一歩は、小川淳也との共著『本当に君は総理大臣になれないのか』においても、小山田圭吾への取材においても、自分が不偏不党、中立公正であることを、ことさらに読者にアピールしている。
『本当に君は総理大臣になれないのか』(講談社現代新書)は、次のように始まる。

 初めて本人に会ったとき、「あなたの出自から、いまの政治に対する思いまで、すべてを丸裸にしたい。ただし、あなたの期待通りの記事になるかはお約束できませんよ」とストレートに伝えた。小川の返事はこうだった。
「私のような者でよければ煮るなり焼くなりしてください。すべてお任せします。自由に好きなようにしてもらって結構です」
 おいおい、こっちは週刊誌の記者だぞ。そんなに簡単に信用するなよ……と思った。
(中原一歩・小川淳也『本当に君は総理大臣になれないのか』P3-4)

 小山田圭吾の取材でも、中原一歩は同じアピールをしている。
 

 本来、小山田氏側からすると、どこの馬の骨かも分からないフリーライターには絶対に会いたくはない心境だったはずだ。「何を書かれるか分からない」という計り知れない恐怖があったに違いない。
 しかし、水と油のように混じり合うことのない両者が、何の因果か思惑が一致し、希に惹かれあう場合がある。
 渦中の人物が「本当のことを話したい」という差し迫った状況に追い込まれた時だが、そんな「幸運」は滅多にめぐってこない。しかし、たとえその確率が1000回に1回だろうが、ダメ元でコンタクトをとり続ける根気がなければフリーライターの仕事は成立しないのだ。
 無論、相手の言い分をそのまま掲載するようなことはない。取材者として難しいのは、「利用される」というリスクもあるということだ。小山田氏に対する私の興味は、「なぜ自ら障がい者イジメを告白し、二十数年後にその事実を否定したか」である。
 だから、申し訳ないが、私が小山田氏に会うモチベーションは最初から最後まで「小山田君の汚名をそそぎたい」というコーネリアスファンの心理とは全く別物だった。
(引用元 「コーネリアス」にも「渋谷系」にも興味がない私が小山田圭吾にインタビューした理由 連載第3回「週刊文春 電子版」)

 なぜ私は最初に話を持ち込んだデジタルメディアの編集者と仕事をしなかったのか。もし、あの時、その編集者がこう言ってくれていれば、仮に原稿料が安かったとしても、その媒体を優先していたと思う。

「この企画は下手をすると返り血を浴びるかも知れません。けれども、それは私(編集部)が受けて立ちますので、存分に取材をしてください」

 この世界では世論の「返り血」を恐れていては仕事などできない。私に限らず署名記事で飯を食っているプロのライターは、自分の書いた原稿が原因でバッシングされたとしても、その批判を受け入れる用意はある。ただし、納得できる取材をするためには編集者との協業が必須だ。事前の資料集めやインタビューを裏付けるための事前取材だって経費はかかる。

 そして一番肝心なのは、編集者は、書き手はもちろん記事執筆のために情報提供をしてくれた協力者、そして取材に応じてくれた当事者を全力で守る責任を負う立場にあるということだ。無論、書き手は取材過程を併走する編集者に逐一報告し、仮に取材の肝となる人物への取材が「空振り」に終わったとしても、その事実を正直に打ち明け、今後の方針を相談しなければならない。こうした両者の信頼を前提とした「協業」は、雑誌ジャーナリズムの世界では当たり前であったし、このやりとりの過程そのものが書き手を育てる教育の機会でもあった。
(引用元 同記事)

 最初の「打ち合わせ」の数日後、小山田氏から「取材に応じます」と返事をもらった。私は事前に「本当のことを話して欲しい。和光学園の同級生にもウラをとる用意がある」と伝えていた。その上で取材に応じるというのだから、それなりの覚悟があったのだろう。私は、週刊文春の編集者と相談し、事前の質問通告もなしで本番に臨むことにした。文字通り「ぶっつけ本番」である。

 取材当日は、冷たい雨が一日中そぼ降る9月上旬だった。ここから、およそ2時間、小山田氏との真剣勝負が始まった。
(引用元 同記事)

 中原一歩のこうした芝居がかった自分語りには、笑うしかない。
 講談師の神田伯山にでもなったつもりか。
「おやおや、中原一歩先生、またやってますなあ」である。
 ジャーナリストが中立公正であるのは当然だ。こんなことはわざわざアピールするまでもない。それをあえて強調しなければならないのは、当人に、やましい気持ちがあるのである。

親しき仲にもスキャンダル


 中原一歩は前掲の記事で、次のように書いている。

 そして一番肝心なのは、編集者は、書き手はもちろん記事執筆のために情報提供をしてくれた協力者、そして取材に応じてくれた当事者を全力で守る責任を負う立場にあるということだ。

 はたして、そうだろうか?

 中原一歩にとって取材を受けてくれた人を守るというのは、相手の不都合なことは書かない、ということである。

 中原一歩には料理人の世界を取材したルポも多い。だがそこは、徒弟制度という名のタダ働きや、パワハラ、セクハラ、などの問題が多い職場であるのも知られている。ところが、中原一歩のルポでそれらが書かれることはない。
 ピースボートの暗部も書かない。

 それとは逆の立場で、「週刊文春」の新谷学編集長による「親しき仲にもスキャンダル」という言葉がある。

「人間関係が木っ端微塵にぶっ壊れても、書くべきことは、書く。その覚悟は絶対に必要だと思ってます」
(引用元「編集とは何か」第4回 ほぼ日刊イトイ新聞)

www.1101.com

 
 雑誌「AERA」で被災地・石巻の記事を中原一歩とともに書いた田村栄治は、『DAYS JAPAN』という広河隆一が編集長を務める雑誌に創刊号から関わっていた。広河隆一とも15年ほどの交流があった。
 それでも田村栄治は、世界的人権派ジャーナリストと呼ばれた広河隆一の性暴力スキャンダルを暴いた。

 中原一歩にこうした記事が書けるか。
bunshun.jp

news.radiko.jp


「AERA」の裏切り

 中原一歩による小山田圭吾のインタビュー記事が「週刊文春」に載った直後、「AERAdot.」にこれを批判する記事が出た。

dot.asahi.com


「AERA」は、中原一歩がデビュー以来執筆してきたホームグラウンドというべき雑誌である。その「AERA」が批判記事を配信した意味は大きい。
 ピースボート人脈、社民党人脈、和光学園人脈。
 コネがすべて悪いわけではない。問題は、中原一歩がノンフィクション作家を名乗りながら、政治的に偏向し、一方的な意見を垂れ流すスポークスマンに過ぎないことだ。
 中原一歩の「ノンフィクション」は、ついに「AERA」からも批判されるようになったのだ。

杉田水脈が見たピースボートの実態

 中原一歩によって礼賛された石巻市でのピースボートの活躍だが、杉田水脈は別の一面を報告している。これに間違いがあるなら中原一歩はきちんと反論すべきであろう。
(引用元「杉田水脈のなでしこリポート(4)熊本地震で懸念されるのはピース・ボートなど左翼団体の暗躍です」産経新聞2016/5/9 12:00)

 宮城県石巻市に視察に行ったとき、案内をしてくださった自民党の市会議員さんから聞いた話です。ピースボートという団体が仮設住宅の自治会に入り込んで、自立しようという被災者に対して「いや、自治体にこんな要求をしたら、お金がもっと取れますよ」とレクチャーしており、現地の良識ある被災者や行政担当者はとても迷惑しているというのです。

 阪神淡路大震災の事例も引っ張り、「神戸の仮設住宅に入っていた被災民の話を聞きに行きましょう」とお金を出して神戸まで連れて行っているそうです。

 阪神淡路大震災が起きた頃は、生活支援法が無かったので、自立再建するしかなかった。自己資金でみんな再建したのです。今は支援法もあって、お金も貰っているのに自立しようとせず、被害者利権を振りかざす。交通事故の時に最初はそうでもなかったのに周りの人からいろいろ入れ知恵されてどんどん要求がエスカレートするなんてことがあります。それに似ています。その指南を左翼団体が行っているのです。生活保護の受給をあっせんするなどというこれまで培ったスキルを駆使して、言葉巧みにお金を貰うことだけを吹き込むのが左翼です。

 このピースボートとは、全国の店舗などにポスターを貼っている地球一周船の旅のピースボートです。私は、衆議院議員時代、震災復興委員会でこのことを取り上げて質疑を行いました。このピースボートという団体の欺瞞性を暴き、その上で石巻の現状を問いました。すると「このピースボートとそのピースボートは違います」みたいな答弁が返ってきたんです。民進党の辻元清美氏が学生時代に始めたというみなさんおなじみの世界一周のピースボートと、石巻に入り込んだピースボートとの関連性は認められませんという答弁です。

 同じ名前を使っているし、そもそも船旅のピースボートのホームページを見たら、石巻へボランティアに行きましょうと記されています。それなのに「別団体で登録されています」といって、うまく逃げられました。

www.sankei.com

世界の中心でピースボートへの愛を叫ぶ

 昨年、ピースボートはコロナの影響で世界一周クルーズを中止した。
 しかし客への返金を巡ってトラブルとなり、観光庁から行政指導を受けた。朝日新聞をはじめとして、メディアでも大きく報じられた。
 200万円を払っていた客が返金を求めると、一括での返金はできないと断られ、3年間で36回払いの返金を提案された。ピースボート側からそんな対応をされた客が、2,000人もいる。
 内情を知っている中原一歩は、何か書いてもよさそうである。

 ところが、中原一歩のやったことは、「#がんばれピースボート コロナショックで船旅を出せないピースボートを助けたい!」というクラウドファンディングを盛り上げるための、トークショーだった。

 中原一歩は今も現役バリバリの、ピースボート信者なのだ。

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