- こけおどしの衒学趣味
- 「小山田圭吾は21世紀のカラヴァッジョなのか」という愚問
- モンドセレクション金賞のクッキーのお味は?
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- 片岡大右のいじめ紀行
こけおどしの衒学趣味
さて、今回も片岡大右のイカサマ、ペテンの手口を暴いていこう。
フランスの社会学者リュック・ボルタンスキーが「国際報道や国際人道支援運動の功罪」について論じた言葉や、「フランス革命期の恐怖政治」を論じたハンナ・アーレントの言葉が、小山田圭吾に結び付けられるのであれば、およそ誰のどんな言葉でも使える。
「エクストリーム擁護」とは、うまいこと言ったものである。
「小山田圭吾は21世紀のカラヴァッジョなのか」という愚問
ジャーナリストの今井佐緒里が、小山田圭吾をイタリアの画家カラヴァッジョに例えたことに、片岡大右は次のように反発する。
ここで誇張と言うべきなのは、小山田圭吾の才能をカラヴァッジョのそれになぞらえている点ではない。誇張は、学校時代から現在にかけての人生のなかで、小山田がバロック期の放埒な天才に匹敵する行状を示してきたかのように示唆している点にある。
(引用元「長い呪いのあとで小山田圭吾と出会いなおす(1)小山田圭吾は21世紀のカラヴァッジョなのか」)
殺人まで犯したカラヴァッジョと、小山田圭吾の行状が同じだなどとは誰も思っていないし、今井佐緒里だってそんなことを示唆していない。カラヴァッジョが活躍したバロック期は、日本で言えば戦国時代である。織田信長や豊臣秀吉といった歴史的人物を例えとすることがあるように、そうしただけである。
ところがこれは前振りで、片岡大右の本音は次の記述にあるのだ。
カラヴァッジョの天才性はやはり、当時のローマの猥雑な活気のなかを生き抜いた荒々しい人となりを抜きにして考えることはできない。人と作品が決して無関係ではないというこの事情は、小山田についても同様だ。
あきれることに、小山田圭吾はカラヴァッジョと同じ天才だというのである。これがどれほど愚劣な差別意識に基づくものか、これから徹底的な批判を加えていく。
モンドセレクション金賞のクッキーのお味は?
片岡大右は「小山田圭吾とはどのような音楽家なのか」と題する章で、「小山田圭吾は間違いなく、過去四半世紀の日本の音楽を世界に向けて代表するひとりだ」(ママ)と書いている。
その理由として、海外の音楽サイトでレビューが掲載されているだとか、日本の文化庁メディア芸術祭で優秀賞を受けただとか、グラミー賞にノミネートされただとかという履歴を並び立てる。そして、『コーネリアスのすべて』というファンムックから関係者のヨイショ発言をピックアップして権威づける。
しかしこんなものは、音楽について何も語っていないに等しい。モンドセレクション金賞に輝いたクッキー、あの有名人も絶賛、という宣伝文句だけで味については何も言わないのと同じことだ。
音楽を聴く耳があるなら、まずはサンプリングとパクリの問題に触れないわけにはいかない。そもそも小山田圭吾にオリジナルな音楽的才能などあったのかという問題である。
これは中村佑介と樋口毅宏という、かつてフリッパーズギターのファンであった人たちからも疑問視されている。
https://lineblog.me/yusuke_nakamura/archives/1062454461.htmllineblog.me
さらに、音楽ジャーナリストの宇野維正は、小山田圭吾の権威主義を批判している。
やはり小山田圭吾が長年にわたり、いじめ問題をスルーできたのは、著名なミュージシャンたちとの交流といった、上級国民ならではの権威を笠に着た背景があったからだと言える。
したがって、小山田圭吾を天才音楽家だのと権威づけることによって、これを擁護する片岡大右のロジックはまことに醜悪である。
宇野維正による批判は以下のサイトで読める。
「宇野維正先生考察第四十六段 宇野維正 × 柴那典 『緊急イベント 強行開催東京オリンピックと2021年音楽シーン』トークショウの宇野先生編」あーりんマッギー