J・S・ミルの『自由論』の中で、「悪魔の代弁者」について述べられた箇所があります。
カトリック教会で、ある故人を聖列に加える際に、誰かが「悪魔の代弁者」として指名され、故人を可能な限り非難する。
それでもやはり偉大な人物であることが示されれば、晴れて聖人になれる。
なぜこういう面倒な手続きが必要かというと、多数派は、多数派というだけで、世論となる。少数派は、多数派からの反対や孤立を恐れて、自分の意見を表明しづらくなり、その結果、少数派は、ますます沈黙し、多数派がはびこる。
こういう悪循環を、ドイツの政治学者エリザベト・ノエレ=ノイマンは、「沈黙の螺旋理論」とし、ファシズムの説明として用いました。
ディベートでも、多数派に対して、あえて批判や反論をする人のことを、「悪魔の代弁者」と呼びます。
それで、誰でもが、何に対しても、自由に批判できるのが民主主義にとって最も重要なことであると、おれは考えているわけです。
昨年は、「民主主義よりも武士道精神」などというトンデモ本が、ベストセラーになりましたが、民主主義を徹底させることこそ必要。
たとえば政治家になろうとする者が立候補した時、「悪魔の代弁者」が登場し、その候補者を徹底的に非難する。
こいつは、政治のことなど何もわからない低脳で、金に汚く、汚職まみれで、ウソばかりついて、愛人もいる最低なゲス野郎です、とか。
それでも、やはり政治家としてふさわしいと考えるなら、投票すればいい。