ワクチンと母の愛

 コロナ騒ぎのせいで、マスクとトイレットペーパーがなくて困っているが、まあ人間というのはこういうものだよなという諦念がある。
 あなたと同じように誰もが行動したなら、いったいどうなるのか、と考えてみること。
 わかっていても、これができない。
 ジョセフ・ヒース著/栗原百代(翻訳)『啓蒙思想2.0』を読んだ。
 子供にワクチン接種を受けさせるかどうかで悩む親たちがいる。小児病はきわめて危険なものだ。病気に比べたら、ワクチンの危険度はかなり低い。が、それでも100パーセント安全というわけではない。ワクチン接種による副作用が出る可能性は小さいが、ゼロではない。それにもかかわらず、病気の危険性とワクチンの危険性を比較するならば、当然ワクチンを受けさせるだろう。
 子供にワクチンを受けさせると、子供自身が病気になる可能性を低くするだけでなく、病気を他の子供にうつす可能性を減らすことにもなる。充分な数の子供たちが予防接種を受けたなら、特定のウイルスが、保菌者の少ない集団に侵入できない「集団免疫」の状況が形成される。
 しかし、ここに落とし穴がある。これはつまり、他のみんなが子供にワクチン接種させるなら、あなたのお子さんにはさせないほうが得になるということだ。
 お子さんは副作用の危険を避けられ、病気になる心配もしなくていい。これが典型的なフリーライダー(ただ乗り)戦略だ。しかし、これをする人が増えると「集団免疫」はなくなり、病気が発生する。
 あなたと同じように誰もが行動したなら、いったいどうなるのか、と考えてみること。
 けれども、これは誰にとっても難しい課題であり、「母性本能」や「勘」のほうを重んじる反合理主義のイデオロギーと、「巨大製薬会社」がらみの妄想が合わされば、大勢の人たちを反ワクチン派に寝返らせるのは簡単だ。
 2007年、アメリカの人気トーク番組『オブラ・ウィンフリー・ショー』に、女優のジェニー・マッカーシーが出演し、ワクチン接種が原因で息子のエヴァンが自閉症になったと訴えた。その根拠となる研究は、その後インチキだったことが明らかになったものの、与えられた損害は甚大だった。
 ワクチンと自閉症とのつながりを示す証拠がないことを突きつけられるとジェニーは、「毎日、自宅で目の当たりにしていることに科学が必要でしょうか? 私はあの子が病気になるのを見たんです……。エヴァンはわたしどもにとって、科学です」と答えた。
 また番組司会者のオブラはその後、『ニューズウィーク』誌の特集記事によって、いろいろな偽科学やインチキ医療に場を用意したことを非難される。
 こうして「母性本能」は「科学」に打ち勝って、健康で幸せな生活を送れたであろう子供たちに、障害をもたらし、時には命を奪いもする病気にかからせてしまう。わが子を守ろうとしている人たちが、自分の「母親としての」直感を抑えられないというだけで、わが子をかえって傷つけるはめに陥っている。
(261-263頁より引用。文章を一部改変)