舞鶴女子高生殺害事件で逮捕された男は、裁判で無罪となった。ところが釈放後、今度はホテル経営者の女性を刃物でメッタ刺しにした容疑で逮捕された。この男の経歴には、他にも殺人などの前科があったことから、先の無罪判決は間違っていたのではないかと言われている。
しかし無罪判決は確定しており、仮に男の証言で真相が明らかになったとしても、刑事裁判をやり直すことはできない。
こういう理不尽なことがなぜ起こるかというと、憲法13条で「すべて国民は、個人として尊重される」と決められているからである。裁判官も弁護士も、この理念で動いている。
『伊藤真の憲法入門』は、次のように説いている。
個人の尊重の考え方が憲法の根本であるとお話しました。
それはすばらしいことなのですが、じつは反面でとても厳しいものなのです。というのは、この個人の尊重を実践していくには国民が痛みを分かちあわなければならない場合があるのです。
たとえば、100人の凶悪犯人が逮捕されて裁判にかけられました。その中の99人は殺人や強盗などの凶悪犯人で死刑判決がだされそうな犯罪者です。ところが1人だけ無実の人が間違って紛れ込んでしまいました。100人のうち1人は無罪なのですが誰だかわかりません。そこで、裁判官としては全員を無罪にするか、有罪にするしかないことになりました。さて、どうしましょう。
1人を救うために全員に無罪判決をだすと、社会に凶悪犯人が堂々と戻ってくることになります。社会を救うために全員有罪とすると、1人の人間が犠牲になります。
憲法はどんなことがあっても、社会のために個人が犠牲になってはならないという価値観に立っているのです。それが個人の尊重なのです。
したがって、社会はその1人の個人を尊重するために、全員を無罪として、凶悪犯人と暮らすという痛みを負担しなければならないのです。1人ひとりを個人として尊重するということは、そう生やさしいことではないことがわかると思います。
しかし、それが私たちの憲法の価値観であり、痛みを分かち合いながらもお互いに1人の個人として最大限尊重しあおうという理念を国民としても理解しておくべきと考えています。(P41より引用)
ここにいう凶悪犯人がエボラ出血熱でも、われわれはこの理念を守らなくてはならないのか。
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