拝啓
立夏の折、昨日は菖蒲湯に入り、ささやかな季節の趣を味わいました。
皆さまお健やかにお過ごしでしょうか。
このたび、電八郎は、四冊目となる電子書籍『小山田圭吾のいじめで東大学者がぼろもうけ・片岡大右の不正を暴く!』を出版いたしました。
Amazon(Kindle)にてお求めいただけます。
本書は、小山田圭吾のいじめスキャンダルをめぐって巻き起こった騒動を契機に、小山田圭吾を擁護する者たちが、どのようにして公的資金やメディアの信用を利用し、学術界・出版界で利益を得ていたのか――その実態に迫るノンフィクションです。
特に焦点を当てたのは、東京大学の片岡大右。
いじめ被害者の尊厳を二次加害によって踏みにじる一方、研究費の名目で得た補助金を使い、天下の岩波書店と集英社を味方につけて、多額の印税まで得たとされる彼の言動に、果たして学問的倫理はあったのか。
本書では、一次資料や公的記録に基づき、虚偽や隠蔽の構造を詳細に解き明かします。
ご興味のある方は、ぜひ以下のリンクからご覧ください。
今後も、皆さまと共に考え、問い続ける書をお届けしてまいります。
引き続きご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。
敬具
電八郎
■まえがき
あやしい本である。
片岡大右による『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか 現代の災い「インフォデミック」を考える』(集英社新書、以下「片岡書籍」)のことだ。
なぜ、あやしいのか。
そのあやしさの一因は、片岡の経歴にある。
片岡大右は東京大学講師であり、専門は社会思想史とフランス文学。
これまでに芸能人をテーマにした著作は皆無である。
最初の単著である『隠遁者,野生人,蛮人 反文明的形象の系譜と近代』(知泉書館)は博士論文を元にしたゴリゴリの学術論文で、一般読者の理解が及ぶ内容ではない。
その他、フランスの社会学者などの翻訳書を手がけている。フランソワ・ドゥノールだとか、ポール・ベニシューだとか、これらも日本ではほとんど知られていない。デヴィッド・グレーバーは『ルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(岩波新書)が、ベストセラーになった。しかし、片岡が翻訳したのは『民主主義の非西洋起源について』(以文社)という別の本で、これもゴリゴリの専門書である。
学者然とした著作を重ねてきた片岡大右が、なぜ突如として小山田圭吾という芸能人を素材にした本を書いたのか。
人は、人に惚れることがある。
かつて、東京大学講師で中国文学者の駒田信二は、ストリッパーの一条さゆりに惚れた。
その『一条さゆりの性』(講談社)は、じつに熱い本だ。一条さゆりへの恋文を思わせる。
一条さゆりはストリップの舞台で客に女性器を見せて公然わいせつ罪で逮捕される。しかしその裁判で、駒田信二は弁護側証人として法廷に立ってまで彼女を擁護した。
片岡大右の振る舞いは、そんな駒田信二に重なって見えなくもない。
片岡は、小山田のことを次のように讃えている。
「小山田氏が騒動を乗り越えることができず、新たな創作が途絶えてしまった場合でさえ、彼が残した音楽は、おそらく22世紀になっても、惑星のいたるところで、さらには地球の外においても、新たな耳を喜ばせ続けることができたに違いありません。」
(片岡書籍、9頁)
小山田圭吾の音楽は、地球人のみならず異星人さえも感動させる。
片岡の筆致は、もはや恋愛詩である。
ただ、熱烈な恋文は、他人の目からすれば、愚かしくも哀れで、滑稽ではあるが。
そんな片岡書籍は、小山田圭吾ファンから熱狂的に迎えられた。
アマゾンのレビュー欄には51の評価が付き、「星5つ」が66%を占め、絶賛するレビューがいくつも投稿されている。
だがしかし、この本は絶賛されるに値するものなのだろうか。
興味深いことに、片岡大右がその後発表した『批評と生きること 「十番目のミューズ」』(晶文社、2023年)という批評集には、2025年3月現在、いまだアマゾンに一件の評価すらついていない。片岡書籍の評価の偏りが如実に表れている。
つまり、片岡書籍は小山田圭吾というネームバリューで売れて、ファンに熱狂的に受け入れられただけなのだ。それ以外には広がらなかった。片岡大右という批評家には誰も見向きもしなかった。
もし片岡書籍が、ただのファンブックなら、それも一つの在り方である。
だが、同書は「いじめ」という社会的に極めて重要なテーマを扱っており、その影響は計り知れない。誤った主張が広まれば、いじめへの誤解を助長し、被害者をさらに傷つける危険性すらある。
これを放置してはならない。
片岡は小山田を擁護したいあまり、常識や定説さえも捻じ曲げて利用している。
事実検証を謳いながらも、小山田自身の証言や彼の支持者の偏った意見ばかりを集め、反対意見や被害者側の声を無視している。
さらに問題なのは、片岡大右のいじめに対する認識である。いじめを友情の延長や成長の過程として相対化する「古典的いじめ観」に基づき、加害者を擁護する態度が随所に見られる。
これまでに積み重ねられてきた先行研究の成果を何ら参照しておらず、偏見にまみれた自説を一方的に押しつけるものに過ぎない。
それにもかかわらず、千野帽子と称する文芸評論家は、片岡書籍を称賛しつつ、私に対しては「正義の執行官気取り」という凡庸な言葉で揶揄、又は非難した。
(千野帽子「BOOKレビュー 武器になる本、筋肉になる本」UOMO)
www.webuomo.jp
また、もう一人。
それにしても、笑ってしまうのは、大友良英というミュージシャンの小賢しさである。
この男、片岡大右の書籍を「一番いい本」だとラジオで持ち上げ、小山田が「いかに理不尽な、間違った情報によって」「集団リンチに近い状態になったんだというのがわかってくるんです」などと、したり顔でしゃべっていた。
(「大友良英のJAMJAMラジオ」KBS京都、2023年4月21日放送)。
挙句の果てに、小山田がオリンピックを下ろされた時の情報は、「はっきり言って非常に間違っていると僕は思っています。様々な事実関係を見ていくと」などと語り、「裁判官でもない人たちがこうやって個人に対して、判決を言い渡していいのかって、ほんとに思うんですよね」などと、本人がまさに裁判官でもないくせに断定してみせる始末である。
他人には「判決を下すな」と言いながら、自分は公共の電波で勝手な「無罪判決」を出しているのだから、ずいぶん都合の良い話である。
そもそも大友良英とは誰か。
かつては「ノイズ」などという、音楽とも言えない前衛ジャンルに身を置いていたアングラ音楽家である。楽譜を無視し、旋律を破壊し、音響を汚すことに快楽を見出すような、頭の悪そうな音を垂れ流していた人物だ。
それが、NHKの朝ドラ『あまちゃん』の音楽を手がけたことで一気に「文化人」に格上げされ、以来あちこちのメディアに顔を出しては、したり顔で「社会的発言」なるものを繰り出すようになった。
おまけに、知的障害児による即興演奏グループ「音遊びの会」にまで関わり、プロデュースまでしている。
では聞こう。
小山田圭吾のインタビュー記事、全裸でグルグル巻にしてウンコ食わせてバックドロップ、あの下劣きわまりない自慢話を、大友良英は「間違った情報だ」「集団リンチだ」と言って擁護する。
だったら試してみればいい。
「音遊びの会」の障害児たちを前にして、その小山田のインタビュー記事を朗読してみたらどうだ。それでもなお小山田は無罪だと胸を張れるのか。
それができないなら、さっさと黙って音楽だけやっていればいい。文化人を気取って社会問題に口を出すには、最低限の倫理と、もう少しだけまともな社会常識が必要だ。
そこで本書では、片岡大右という学者と、その言説のあり方、そしてそれをめぐる一連の問題について徹底的に検証した。
片岡大右の書いていることは、間違いだらけである。
そうは言っても、東京大学の学者が書いているのだから、きっと正しいはずだ、と思うかも知れない。
どうかそんな思い込みを捨ててほしい。表面的な知識や言葉に引きずられ、内容を吟味せずに権威に頼る姿勢を改めてほしい。
また、仮に片岡大右に「三分の理」があったとしても、それとは別に、片岡が執筆した小山田についての論文および書籍は、「学術論文」という扱いになっており、これには文部科学省の助成金である科学研究費(科研費)が使われている。
つまり、小山田圭吾のイメージ回復という私的プロモーションに、公金が使われているのである。
このことの当否をぜひ考えてほしい。
また、片岡大右の「学術論文」に強い影響を与えた「こべに」と称する匿名ブロガーについても考察している。小山田のいじめ冤罪説の拡散には、SEO(検索エンジン最適化)などのウェブ・マーケティングの手法が駆使されており、これを仕掛けたのは、広告制作会社の現役社員であることを詳らかにする。
前作の『毒ガス攻撃とバックドロップ――小山田圭吾で文藝春秋は二度死ぬ』でも書いたが、対立する意見がある場合、一方の意見だけを鵜呑みにするのではなく、異なるもう一方の意見にも耳を傾けてほしい。
それから判断しても、遅くはなかろう。
なぜその手間を惜しむのだろうか。
その結果、ああやはり片岡大右先生の書いていることの方が正しい、と思うのならしょうがない。説得できなかった私の力不足である。
しかしながら、晦渋な片岡大右の文章とは違い、私の本は誰にでもわかるように書いてある。
本書では、片岡書籍の論理のほころびを具体的に検証し、確かな論拠を示しながら、いじめ問題に対するより誠実な視点を提示していく。
片岡大右が積み上げた観念的な虚構に対して、事実と最新の知見をもって真摯に向き合うこと。
それこそが、本書の目指すところである。
■「超・科研費対策論文」の問題性
■結局のところ、何が問題だったのか
〇第3章 「障害者差別」の枠組みを解きほぐす
■「知恵遅れ」は差別用語である
■平山雄一によって作られた「障害者との友情物語」
■小山田圭吾はなぜ「知恵遅れ」と言わなくなったのか?
〇第4章 「恣意的な編集」への囚われのなかで
■小山田君がしゃべったことをそのまま掲載しただけ
■無視された宇野維正の証言
■「ロッキング・オン・ジャパン」1993年9月号
■「2ちゃんコピペ」はなぜ小山田炎上の決定的要因となったか
■「犯罪者的小山田像」を生み出したのは誰か
〇第5章 いじめる側の論理
■岡崎京子はいじめの実像を描いたか
■文部省と1990年代のいじめ観
■小山田の無垢と村上清の非道
■村上清「説教くさいいじめ論に吐き気がする」
〇第6章 「尾木ママ」はいかに歪曲されたか
■「いじめは面白い」の両義性と逆説
■「加害者救済こそいじめ克服の近道」か
■片岡大右と尾木直樹
■国際的な日本の恥
■床山すずりの個人的な体験
■和光学園という「生きジゴク」
〇第7章 片岡大右の古典的いじめ観
■こけおどしの衒学趣味
■小山田圭吾は21世紀のカラヴァッジョらしい
■モンドセレクション金賞のクッキーのお味は?
■障害者は小山田圭吾の音楽の養分ではない
■沢田君の人生は小山田圭吾のものではない
■「大学教員トリオ」が藤原悠馬のブログをパクる
■片岡大右のいじめ紀行
〇第8章 いじめ自殺者は二度殺される
■科研費を使って「小山田圭吾研究」をすることの問題点
■「大津市中学生自殺事件」はいかに利用されたか
■「いじめ自殺」はなかった
■これは「いじめ自殺」ではない
■「いじめ自殺」は戦前からある
■「いじめ自殺」だけが問題なのか
〇第9章 東京大学の差別主義者
■学術論文で自作自演
■「和光学園」の呪いと囚われ
■岩波書店はいつからヘイト出版社になったのか
〇第10章 匿名ブロガーの正義が学術論文のソースになるまで
■反「鬼畜系」的情熱のなかで
■ロマン優光への呪いと囚われ
■恋とマシンガン こべに!こべに!こべに!
■クレイムメーカーが事実を作り出す
■訴状を受け取り拒否されるが裁判は進む
■牧村憲一とはどのような音楽プロデューサーなのか
■「海外雑貨ショップ Cordelia」がつぶれた理由
■「こべに」と片岡大右の破局的な同床異夢
■「こべに」との日々、再び
■あとがき
■著者紹介
■主要参考文献
〇第1章 片岡大右とはどのような研究者なのか
■批判・ロマン主義・日本的近代
片岡大右。
その名前を聞いてもほとんどの人は知らないだろう。
私も知らなかった。
なにしろ朝日新聞論説委員の藤生京子にさえ「74年生まれ、ほぼ無名の仏文学者」と書かれる始末だ。(「(社説余滴)いま加藤周一を読み直す」朝日新聞DIGITAL 2019年12月22日)
だが当人は、よほどうれしかったのだろう、「感謝に堪えません」という謝辞と共に、記事へのリンクを自己のX(旧ツイッター)に固定表示している。
裏を返せば、それくらいしか誇ることがない。
決して馬鹿ではない。
東大と、DEA(パリ8大学)を出て、博士号まで取得している。大学教授になっていてもおかしくない経歴であるが、なぜかいまだに非常勤講師である。
東京大学、慶應義塾大学、早稲田大学と名だたる大学で教えているが、いずれもフランス語を担当、すなわち語学教師である。立派な学歴に見合わない仕事である。
それでいて、2019年から2022年にかけて、文部科学省から科学研究費(科研費)という補助金助成金を得ている。その額、じつに310万円である。直接経費として310万円、間接経費として93万円。総額で、じつに403万円である。
(科学研究費助成事業 研究成果報告書 課題番号 19K00528)
https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-19K00528/19K00528seika.pdf
一般的に、非常勤講師が科研費の助成を受けられるのは珍しいことだとされるから、研究者としては優秀なところもあるのかも知れない。だとしたらなおさら、なぜいまだに非常勤講師なのか解せない。
さて、その科研費の助成を受けて行った研究であるが、研究課題が「批判・ロマン主義・日本的近代――近代諸社会における「文学的なもの」の身分規定」というものである。
ポール・ベニシューやリュック・ボルタンスキーという社会学者の専門的な研究に基づいて、フランス・ロマン主義を考察するその論文は確かに学術的なものである。また、加藤周一や三島由紀夫を題材に、日本やアジアとの比較検討をするというのも学術的意義があろう。
しかし「19世紀フランス文学から21世紀の各国のポップカルチャーまでを貫く共通の問いを浮き彫りにする」という名目の下、ファンタジー小説が原作のテレビドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』や、『風の谷のナウシカ』『鬼滅の刃』について論じた雑誌原稿まで研究業績に含めているのを見ると、おや? と思わずにはいられない。
■2021年7月24日、フォロワーが80人増えたと喜ぶ
そして、2021年7月14日、東京オリンピック・パラリンピックの音楽担当者として発表された小山田圭吾をめぐって騒動が起きた。
片岡大右は、ツイッターでこれについての投稿をするようになる。バッシングの渦中にあった小山田圭吾を擁護するような投稿すると反響があった。
小山田圭吾ファンがフォローしてツイートに「いいね」をくれて拡散してくれた。
2021年7月24日には、フォロワーが80人増えたと喜ぶ投稿をしている。
名前を売るチャンスだ、とでも思ったのかも知れない。
片岡大右がツイッターを始めたのは、2019年10月である。9月に加藤周一のシンポジウムで発表し、前述の朝日新聞論説委員から取材を受けた。記事になると聞いて、喜び勇んでツイッターを始めたのだろう。
「これでやっとオレも、千葉雅也みたいになれる」とでも思ったのか。
しかし、その思いは実らなかった。
ツイッターのプロフィールには、「準備中:『加藤周一、ある知性の肖像』(仮題、岩波書店)」と出版予定の著書を告知しているが、何年たっても一向に刊行されない。
片岡大右は、禁断の果実に手を出した。
それまで小山田圭吾になど興味がなかったが、騒動を知って「クイック・ジャパン」を読んでみた。
「孤立無援のブログ」の人気が、ねたましかった。
北尾修一のブログを読んで、オレも小山田圭吾を擁護してやろうと思った。
中卒の外山恒一にさえリプを送って、媚を売った。
ツイッターで「孤立無援のブログ」の誹謗中傷を始めると、アクセスが増えた。「いいね」をしてくれる仲間も現れた。
■「ほぼ無名の仏文学者」が天下の岩波書店で連載
そんなツイートを見ていた岩波書店の編集者である渡部朝香から、コラムの執筆を依頼される。そう、最初は岩波書店がやっているサイトへ掲載する短いコラムの依頼だった。それを片岡大右は、ここぞとばかりに10万字を超える長文の批評をしたためた。
渡部朝香というのは、岩波書店の編集者としては目立つ存在で、栗原康『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』や『アナキズム――一丸となってバラバラに生きろ』などのヒット作を担当した。また、宇野維正『小沢健二の帰還』や、小澤俊夫/小澤征爾/小澤幹雄『小澤征爾、兄弟と語る――音楽、人間、ほんとうのこと』を手掛けていることからもわかるとおり、小沢健二ファンである。そのつながりで、片岡大右とも親交があったのだ。
これは余談だが、私はツイッターで渡部朝香をフォローしたところ、即座にブロックされた。
片岡大右の批評のタイトルを『長い呪いのあとで小山田圭吾と出会いなおす』(以下「片岡論文」)と言い、連載ごとに「小山田圭吾は21世紀のカラヴァッジョなのか」などといったサブタイトルがつけられていた。
渡部朝香はこれをそのまま掲載することに決めて、2021年12月28日に第1回の原稿が掲載され、全5回の連載となった。
さらに、この連載がまとめられて書籍になった。それが、片岡大右の『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか 現代の災い「インフォデミック」を考える』(集英社新書、以下「片岡書籍」)である。
これからこの論文に対する批判を行う。なお、どちらもほぼ同じ内容であるが、片岡論文は初回の連載以外はサイトから削除されており、読者の便宜を考えて、本書に引用する際には主に片岡書籍からの出所を明示することをお断りしておく。
■文部科学省からもらった助成金の使い道
じつは、この論文の執筆にも科研費が使われている。
小山田圭吾のいじめ炎上事件が、フランス・ロマン主義に関係する研究に値するのかどうかは、文部科学省が判断することだから何とも言えない。しかし、科研費により得た研究成果を発表する場合は、以下のとおり、科研費により助成を受けたことを必ず表示しなければならない。
研究成果における謝辞の表示
1.科研費により得た研究成果を発表する場合は、科研費により助成を受けたことを必ず表示してください。
(科学研究費助成事業(科研費)使用ルール・様式集)
しかしながら、岩波書店が掲載した論文にも、集英社から刊行された片岡書籍にも、この表示がない。したがって、片岡大右が科研費のルールに違反していることは明らかである。
また、「補助金の交付を受けて刊行する図書にかかる印税の取扱いは「無印税」とし、著者・編者・著作権者等に一切の利益が生じないようにしなければなりません。」との取り決めもある。
(科学研究費助成事業(科学研究費補助金)(研究成果公開促進費)「学術図書」の補助事業を遂行するに当たっての留意事項及び関係書類の提出について)
https://www.jsps.go.jp/file/storage/grants/j-grantsinaid/16_rule/data/30_dl/4_tosyo_ryui.pdf
片岡書籍は20万部ほど売れたと聞いた。そうすると、著者が受け取る印税の額は約2千万円である。
片岡大右は小山田圭吾の論文や書籍に関して、原稿料や印税を受け取っているはずだ。ならば、このルールにも抵触している疑いがある。
それに加えて、書籍『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』(集英社新書)が出ると、その刊行記念シンポジウムというものを、科研費(19K00528)を使って開催している。会場は片岡の勤務先である慶應義塾大学三田キャンパス東館4階オープンラボである。
ようするに、身銭を切らずに科研費を使って本を書き、そうして出版した自分の本の宣伝まで、科研費でやっているわけだ。
(小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか・刊行記念シンポジウム)
ifyouarehere.studio.site
その登壇者は、片岡大右、高村夏輝(埼玉県立大学准教授)、こべに、伊藤昌亮(成蹊大学教授)というものであった。しかし、この直前に私が高村夏輝を名誉毀損で訴えたところ、高村夏輝が降板して、代わりに音楽ライターと称する大久保祐子が登壇した。
その内容は、小山田圭吾ファンの集いである。こんなものに学術的な価値があるとは思えない。文部科学省から得た助成金で、本の宣伝と、いじめ加害者の擁護をやっているのである。
その可否は文部科学省が判断することであるが、じつにグレーなところのある「研究」である。
〇第2章 片岡大右はなぜ小山田圭吾を必要としたのか
■岩波書店の長い呪いの始まり
2024年9月20日に福田和也が逝去した。
毀誉褒貶の中を駆け抜けた批評家だった。多くの書籍を著し、幅広い言論活動を続けたものの、その評価は一様ではなかった。
福田和也の作品のうち、学術論文である『奇妙な廃墟――フランスにおける反近代主義の系譜とコラボラトゥール』は、高い評価を受けている。慶應義塾大学大学院在学中に研究を始め、7年の歳月を費やして完成させたこの著作は、フランス文学における反近代主義と、第二次世界大戦期にナチス・ドイツに協力した作家たち(コラボラトゥール)を主題とした。その独創性と鋭い視点は称賛されたが、禁忌に触れるテーマがゆえに、福田は学問の世界で定まった地位を得るのに苦労したようである。
慶應義塾大学の非常勤講師としてキャリアを積み、論壇誌や週刊誌でも活躍し、最後には名誉教授の地位に至った。その過程には、数々の苦渋と忍耐があったに違いない。
片岡大右がフランス文学の研究者として福田をどう評価していたのか、また両者に交流があったのかは、わからない。
福田和也の批評は、容赦のない辛辣さをもって知られていた。
『作家の値打ち』(飛鳥新社)において、渡辺淳一を痛烈に批判し、その小説『失楽園』が日本経済新聞に連載されたことで「日本経済の潰滅が決定的になった」とまで言い放った。この過激な物言いこそ、福田和也という批評家の真骨頂であった。
片岡大右の連載が、岩波書店のサイトで始まった時、私はこれを思い出し、なにかが潰滅するのではないか、と危惧した。
予兆というべきか、岩波ホールが閉館してしまった。
(片岡大右が小山田圭吾と出会いさえしなければ……)
岩波書店に、やがて怨嗟の声が満ちるであろう。
岩波書店のnoteに連載時の『長い呪いのあとで小山田圭吾と出会いなおす』には、渡部朝香が書いたのだろう、岩波書店編集部による前書きがついている。
「彼(小山田圭吾:筆者注)はそれほどまでに焼かれる必要があったのでしょうか。この出来事が、パンデミックのもとで起きた、誤情報を多く含む「インフォデミック」であったことを、批評家の片岡大右さんが詳細に分析してくださいました。」
(『長い呪いのあとで小山田圭吾と出会いなおす|小山田圭吾は21世紀のカラヴァッジョなのか|片岡大右 )
この文章が、すでに支離滅裂である。
「インフォデミック」というのは、噂やデマを含んだ大量の情報がネットで急速に拡散し、現実社会に影響を及ぼす現象のことである。WHOが新型コロナに関するフェイクニュースの拡散を「インフォデミック」と呼んだことで広まった。
だが、小山田圭吾の騒動は、新型コロナという「パンデミック」(感染症の世界的な流行)とは何の関係もない。
したがって、新型コロナに関するフェイクニュースの拡散とも異なる。一方は世界規模で多くの人命にかかわる問題であるが、一方はたかが日本の芸能人のゴシップに過ぎない。
「批評家の片岡大右さんが詳細に分析してくださいました」というのも、笑止である。
批評家の仕事というのは、本を読んで論評することである。社会現象の分析もできるかもしれないが、それにはもっとふさわしい人がいる。「批評家の片岡大右さん」は、社会学者の本を翻訳しているだけで、社会学者ではない。
批評家としても二流であることは、片岡論文における文献調査や史料批判の甘さを見れば明らかだ。
■こじつけと想像力
片岡論文は、フランスの社会学者リュック・ボルタンスキーの引用で始まる。
だが、当然のことながらボルタンスキーが小山田圭吾の騒動を調査して何かを言ったわけではない。それは「国際報道や国際人道支援運動の功罪」について論じた言葉なのだが、いったい小山田圭吾と何の関係があるのか。
それでも、ボルタンスキーの言葉に何かの教訓があるとするなら、それはおよそどんな現象にも当てはまるマジック・ワードに過ぎない。
続いて引用されている「フランス革命期の恐怖政治」を論じたハンナ・アーレントの言葉も同じである。
「国際報道や国際人道支援運動の功罪」であろうが、「フランス革命期の恐怖政治」であろうが、なんでも小山田圭吾に結び付けられるのであれば、およそ誰のどんな言葉でもいい。
リュックもハンナも、きっと苦笑していることだろう。
社会現象を分析するとは、このような憶測を積み重ねる作業ではない。
岩波書店も、落ちたものである。
ハンナ・アーレントは『革命について』(志水速雄訳、ちくま学芸文庫)の中で、フランス革命期に恐怖政治を行ったロベスピエールを取り上げ、正義の名のもとに過度な糾弾が加速する危険性を論じた。
片岡大右は、このアーレントの考察を参照し、次のように述べる。
「アーレントが述べたように、不幸な誰かへの思いはたやすく個々の具体的な状況を離れ、被害者像は――それに伴って加害者像も――抽象化されてしまう。各自が自分の経験や一般的な通念を投影しながら憤りを小山田圭吾にぶつけることができるのは、このような心の働きによっているのだろう。」(片岡書籍、26頁)
つまり片岡は、アーレントの言葉を引きながら、小山田を炎上させた者たちの行為を「正義の暴走」として批判している。
しかし、同じアーレントの言葉を、千葉雅也と國分功一郎は、まったく異なる視点から解釈している。
二人の対談集『言語が消滅する前に』(幻冬舎新書、114頁~120頁)の中で、國分功一郎は多様な解釈を許さない「エビデンス主義」を批判して、「心の闇」の必要性を説いている。
これは立木康介が『露出せよ、と現代文明は言う――「心の闇」の喪失と精神分析』(河出書房新社)で論じたものである。たとえば、1997年の神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)について、評論家たちは犯人の少年の「心の闇」を語った。しかし、立木はそれらの見解とは逆に、「少年は、残念ながら、心の闇を作り損なった」のであって、自らの「苛烈な欲望」をその闇にしっかりとつなぎとめておかねばならなかった、と述べた。
そして、千葉雅也はアーレントのロベスピエール批判を引用して、これも「心の闇」の機能を肯定的に論じたものだと解釈する。千葉は次のように述べている。
「何でもかんでも理性の光の下に晒そうとすると全員偽善者になるので恐怖政治が起こる。これがアレントによるロベスピエール批判なんですね。」
(千葉・國分、前掲書、118頁)
片岡大右の議論では、この「心の闇」の必要性が見過ごされている。「インフォデミック」だの「ファクトチェック」だのというのも、過剰なエビデンス主義である。
すなわち、人間の内面には明るみに出してはならない部分があり、それが保持されることで健全な社会が維持される。したがって、障害者への差別感情をあけすけに語った小山田圭吾もまた、「心の闇」を作り損なったのだ。障害者を侮蔑し嘲笑したいという「苛烈な欲望」は小山田の「心の闇」にしっかりとつなぎとめておくべきだった。