徳川時代には、敵討ちが、認められていたわけですが、その規範となる「徳川成憲百箇条」は、
「殺された者の子葉が 敵討ちを願い出たなら、登記して希望通りにさせよ。ただし、又敵はいけない」
というものであった。
○親の敵を、子が討つのはOK。
○兄姉の敵を、弟妹が討つのはOK。×親が、子の敵を討つのはダメ。
×兄が、弟の敵を討つのはダメ。
(許可が下りない)×伯叔父(おじ)の敵を、甥が討つこともダメ。
(逆縁の敵討ちが許されるのは、最適な肉親がいない時に限られる)
けっこう、きびしいですね。
わが子が殺されて、親が、敵討ちをしたいと思っても、認められなかったわけです。
では、赤穂浪士の吉良邸討ち入りとは、なんだったのか。
半藤氏によりますと、
浅野長矩の恨みを晴らしたいのであれば、長矩に子がないから、弟の浅野大学がやらなければならない。
『礼記』も「長宗我部式目」も、家康の「百箇条」だって、君臣の義の敵討ちを認めてはいない。
大石内蔵助たち家来が代わって敵討ちなんてルール違反もいいところである。
なるほど。
こういう観点からすると、忠臣蔵というのも、奇妙なものですねえ。