バカのための吉本隆明入門

客「吉本隆明がテレビに出ていたね」
主「見たよ。教育テレビの『吉本隆明 語る』というやつだね。埴谷雄高ETV特集の時にも出ていたな、その前は電波少年だ」
客「電波少年にも出ていたか」
主「海でおぼれて、回復した時に。*1海水浴恐怖症を克服させるという企画で、松本明子が吉本を自宅に訪ねて、水を張った洗面器に顔をつけさせるという」
客「そんなバカな企画をよく承知したものだな」
主「たまたま見てて、あわてて録画したよ。これがテレビ初出演かな」
客「だけどさすがに耄碌したよな。講演の時間が過ぎても、延々としゃべり続けている姿にはちょっと心配になったよ」
主「あれは、いつものことさ。1995年7月24日に、有楽町よみうりホールで「文学の戦後と現在」という講演をやった。*2おれはこれを会場で聴いたけど、この時も終演時間オーバー。吉本の講演は、時間通りには終わらない。最後は係員が止めにきて、それでも無視してしゃべり続ける、ていうのが恒例だ」
客「へえ、そうなのかい。しかし一緒に出てた糸井重里というのは何かね」
主「なんだろうね」
客「ブラックバスを釣ったり、徳川埋蔵金を掘ったり、小ざかしいやつだね。あいつのサイトを見たら吉本の講演をCDにして販売していた。ああいう文化人気取りの広告屋を見てると、虫唾が走る。チンドン屋のほうがよほど立派だね」
主「ああいう手合いのことは、まあいいじゃないか。それより吉本だ」
客「番組では、『言語にとって美とはなにか』の内容が語られていたな。しかしあれは難解だ。『共同幻想論』も学問的にはどうかね。すべての事象を統一理論で説明しようとするところに、おれはどうも胡散臭さを感じる。それでも吉本を読んでみたいという人に、お勧めの本はあるかね」
主「まずは、『マチウ書試論・転向論』(講談社文芸文庫)がいいだろうね。表題作は吉本を知る上で外せない論文だ」
客「マチウ書とは、『マタイ福音書』のことだね。聖書の登場人物をフランス語に読み替えていて、異様な迫力に満ちた論文だ。ニーチェの『反キリスト』の影響が強い」
主「ニーチェキリスト教徒のルサンチマンを糾弾したが、それを超克するなんて簡単にできることじゃないね。その証拠に、ニーチェ主義者なんてルサンチマンの塊だ」
客「それは吉本信者にも言えるね。この攻撃的パトスと近親憎悪が、やがて左翼の内ゲバを呼んだと考えると暗澹とする」
主「詩人であり文芸評論家だった吉本が、60年安保闘争学生運動を支持し、政治的発言を強めていった。その当時の評論は『吉本隆明全著作集13・政治思想評論集』に収められている。脂の乗り切っていた時期だから、どの評論も激烈だ。『擬制の終焉』もここで読める」
客「有名なアンパン屋の話だね。*3吉本の、敵を罵倒する時の比喩は、おもしろい」
主「花田清輝との論争以来、じつに多くの論争をしてきた。つい感情的な罵倒に走るのも吉本の魅力のひとつだろうね。それを知るには、『「情況への発言」全集成』(洋泉社新書)がいいだろう。吉本が出していた雑誌『試行』の巻頭を飾っていた名物連載を、全三巻に収録している。以前は、『情況へ』(宝島社)という単行本で出ていた」
客「今回のテレビ番組に不満なのは、批判的な視点がなかったことだね。小熊英二の『〈民主〉と〈愛国〉』によれば、吉本は、戦中に理系の大学に進学して徴兵を逃れて生き延びた、と指摘されている」
主「それについて吉本は、一応弁明しているようだけどね。*4鶴見俊輔が『戦争が遺したもの』でやったように、小熊英二と対談すればいいのに」
客「それは実現してもらいたいね。生きているうちに」

おれが愛することを忘れたら舞台にのせてくれ
おれが賛辞と富とを獲たら捨ててくれ
もしも おれが呼んだら花輪をもって遺言をきいてくれ
もしも おれが死んだら世界は和解してくれ
もしも おれが革命といったらみんな武器をとってくれ


吉本隆明『恋唄』より)

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

*1:1996年8月、静岡県の海水浴場で遊泳中に溺れ、意識不明の重体になる。

*2:埴谷雄高吉本隆明の世界』(朝日出版社)に収録

*3:安保闘争のなかで、もっとも奇妙な役割を演じたのは日共であろう。なまじ前衛などと名のってきたために市民の中に埋没することもできず、さりとて全運動の先頭にたつこともできないために、旧家の意地悪婆のように大衆行動の真中に割ってはいり、あらゆる創意と自発性に水をかけてまわった。安保の中で日共といえば、指導部とは独立に活動した少数の優れた人たちの顔を除けば、このときピケを張っていた腕章の男たちと、大衆の渦の中で『アカハタ』を売り歩いていた男と、宣伝カーの上でニヤニヤしながらデモ隊に向って御苦労さんなどと挨拶していた男しかおもいださない。もちろん、宣伝カーのうえからニヤニヤしながら挨拶している中央委員は愚劣である。ひとびとのたたかいの渦のなかで、『アカハタ』を売っている男も、アンパンを売っている男よりも愚劣である。大衆のたたかいへの参加を阻害しているピケ隊の男たちも愚劣である。安保闘争が創意あるたたかいとしてもりあがるためには、これらの愚劣な役者たちが消滅することがぜひとも必要であった」(『擬制の終焉』から引用)

*4:『文藝別冊「総特集 吉本隆明」』(河出書房新社