僕が図書館にいたのは特別に読みたい本があったわけじゃなくて、ただ外の寒さから逃れるためだった。図書館の中は暖房が効いていたから、ここではモンクレールのダウンジャケットはもう必要なかった。閲覧室にあるイスは、ほぼ埋まっていた。空いている席があるにはあるが、その隣では『ジャッキー・ブラウン』に出てくる密売人みたいな男が住宅地図を広げていて座る気になれなかった。
しょうがなく書架の間をうろうろしていると、日曜日の夜に偶然聞いたラジオのことをふと思い出した。それは『英語で読む村上春樹』という語学番組で、英語に訳された「バースデイ・ガール」という短編小説が朗読されていた。
村上春樹の小説はほとんど読んでいるはずだったが、この小説は知らなかった。それで読もうと思って書架を探した。『村上春樹全作品』の短編集を調べたが、その短編小説は載っていなかった。おかしいな、と僕は思い、図書館にある端末で検索すると、『バースデイ・ストーリーズ』という短編集に収録されていることがわかった。
ところが、書架に戻って村上春樹の単行本が何十冊も並んでいる棚を探してみたもののその本は見当たらなかった。
「すみません」と僕は、通りがかった司書の女性に尋ねた。
「ああ、それでしたらこちらです」
彼女はカウンターの上でグラスを滑らせるように、僕を別の棚に案内した。
「これですね」
彼女が指差したその先には、たしかに『バースデイ・ストーリーズ』という書名があった。まるでシマリスが隠してあった木の実のありかをこっそり教えてくれたみたいだった。
僕は感謝の気持ちを伝えて、その本を手に取った。「村上春樹 編訳」。
「なるほど。翻訳集だから、英米文学の棚なんですね」
僕がそう言うと、シマリスの司書はにっこりほほえんだ。
「貸し出しなさいますか?」
「いえ、この中の村上春樹の短編だけ読めればいいんです」
彼女はうなずいた。そして、去り際に「ハッピー・バースデイ」と小声で言った。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2006/01/01
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