北尾修一氏に問う 著作権法をご存じですか

目次

北尾修一氏のブログ記事「いじめ紀行を再読して考えたこと」を読んで、まずは唖然とした。これが長年編集者をやってきた人の文章なのかと。

 私への批判については、きちんと反論させていただく。
 しかしその前に、ふたつ気になる点を。
 北尾修一氏は当該記事に公開期限を設定している。私への批判を書いた後、すぐに記事を消して逃亡するというのは、誠実な態度とは言えない。何より読者から検証する機会を奪ってしまう。北尾修一氏にとってこの問題は、「通りすがりのビンタ一発」程度の意味しかないのだろうか。それともコンテンツ化して一儲け企んでいるのだろうか。

 もうひとつは、『Quick Japan』編集長A氏、記事執筆者М氏と名前を伏せている点である。赤田祐一、村上清に対して、忖度しなければならない事情、または関係性があるのだろうか。北尾修一氏のこの記事は、きわめて内輪向けに発信されているように見受けられる。業界の仲間に向けて、「例の件、上手くやっときましたよ」と揉み手でメッセージを発信することが、本来の目的であるように思われる。

 北尾修一氏の主張は単純である。
 私が小山田圭吾を貶める悪意を持って、元記事の「鬼畜的要素の固有名詞をカットアップして短文化し、あたかも鬼畜に仕立て上げ脚色」した。「元記事の文脈を恣意的に歪めている」。その結果、本来の企画意図とは違う、「加害者のいじめ自慢」もしくは「いじめはエンターテイメントだと推奨する記事」になってしまった。
 つまり、私が元記事を意図的に切り貼りして、悪魔のような小山田圭吾像をでっち上げた、と言いたいわけだ。

 北尾修一氏は、自分が編集者として関わった「村上清のいじめ紀行」をこれまで一度も読み返したことがなかったという。そのことにまず驚く。小山田圭吾さえ謝罪文の中で「自分自身でも長らく罪悪感を抱えていた」と書いているのに、北尾修一氏は、罪悪感を抱くどころか、忘れていたのである。被害者は受けた傷を一生忘れないが、加害者は忘れる、というのは本当なのだ。

 北尾修一氏は、まず私のブログを読んで、自分の記憶とは違うと驚き、次に元記事と照らし合わせて検証していく。そして、次のように結論付ける。

 つまり、この「いじめ紀行 小山田圭吾の回」は、意図を持って構成が練られた、全体で22pにわたる長編読み物(=起伏のあるストーリー)なのですが、「孤立無援のブログ」はその文脈を無視し、煽情的な語句(情報)だけを切り取った上で、読んだ人の気分が悪くなるように意図的に並べ替えた上で公開しているものなんです。
 たとえるなら、「ビジネス書はたくさん読むけど、小説や詩は生まれてから一度も読んだことがない人が作るまとめ記事」みたいなものです。

はたして、本当だろうか。

 北尾修一氏は、私のブログ記事を、「いわゆる普通の意味での『記事の要約』になっていない」と述べている。
 ここにまず最初の食い違いがある。北尾修一氏は、私のブログを「記事の要約」だと考え、そして要約というものは誰がやっても同じものになると思っているようだ。もちろん、そんなことはない。
 昔話の「桃太郎」を要約するのでも、桃太郎の立場から要約するのと、鬼の立場から要約するのでは、まったく違う。私は沢田君や村田君の立場から要約した。しかし、北尾修一氏は、小山田圭吾や村上清の立場から要約した。
 北尾修一氏の要約が正しいわけでもなければ、私の要約が正しいわけでもない。そしてどちらにも、正しさの一面はある。
 まず、このことを共通認識としたい。
 同じ文章を読んでも、感じ方は人それぞれである。それを意図的なカットアップというのであれば、北尾修一氏のブログ記事も同じである。解釈の違い、考え方の違い、被害者と加害者、どちらの立場を重視するか。
 北尾修一氏は加害者側に立っている。私は被害者側に立っている。実際に加害者側である北尾修一氏と比べ、私は第三者に過ぎないが、私の信条がそうさせる。
 北尾修一氏の言いたいことは、小山田圭吾や村上清にもいろいろ事情があったんだからそれを少しは考慮してやれ、ということであろう。それならそう世の中に訴えればいいのである。

私は、あくまで被害者側の視点から書く。北尾修一氏の考えとは相容れないし、小山田圭吾や村上清の人間性を考察する気もない。そういうことをやりたければ、勝手にやればいい。

 私の見た限り、大手マスコミ報道で私のブログだけをソースとしたものは一つもない。「毎日新聞」も「日刊スポーツ」も国会図書館で原本を閲覧している。当たり前のことだが、どこも複数の情報を照らし合わせて、きちんと裏を取っている。遠隔複写サービスで簡単にコピーが入手できる時代に、報道関係者がその手間を惜しむわけがない。
 テレビ出演者も当然、『Quick Japan』の元記事を読んだうえでコメントしている。

和田アキ子「原文を見ましたけど。ちょっとテレビでは言えないくらい。いじめと言うには、あまりにも悲惨。陰湿を通り越して悲惨」。

伊藤利尋アナウンサー「個人的な感想として申し上げますと、決して被害者に寄り添うというものではなく、なかなか理解に苦しむ内容ではありました」。

坂上忍「どっち(の出版社)もですけど、二十数年前とはいえ、ここまで趣味の悪いものをよくも公にしたなという、見識のなさというか、それにビックリ」。

茂木健一郎「内容を拝見したんですけど、擁護は無理かなと。その時点で過去のことだったんですけど、反省無しで面白い話として語られているのは厳しいと思っていて」。

 さらに、知的障害者や家族らで作る一般社団法人「全国手をつなぐ育成会連合会」は次のような声明を出した。

 小山田氏のインタビュー記事は採録がためらわれるほどの凄惨な内容であり、いじめというよりは虐待、あるいは暴行と呼ぶべき所業です。このような行為は、たとえ学生という未成熟な年代であったとしても、許されるものではありません。しかも、そのターゲットが反撃される可能性が少ない障害のあるクラスメイトだったことも考え合わせると、小山田氏の行為には強く抗議するものです。 (後略)

(前略) しかし、そのことを成人して著名なミュージシャンとなった後に、わざわざ高名な音楽雑誌のインタビューで面白おかしく公表する必要性はなかったはずです。極めて露悪的と言わざるを得ません。しかも、インタビューでの発言では明らかに障害者を差別的に揶揄している部分も各所に見受けられ、少なくともインタビュー時点ではまったく反省していないばかりか、一種の武勇伝のように語っている様子が伺えます。

 北尾修一氏は元記事には高尚な理想があり、それを私のブログ記事は意図的に歪めたと主張するのだが、そんなことはない。元記事の全文を読んでも、受ける印象は変わっていない。それはほとんどの人が、被害者側に立つからであろう。こうした被害者意識こそ、「いじめ紀行」の執筆者たちが嫌悪し攻撃しようとしたものである。そこにも一面の真理はあるだろう、しかしそれが絶対的な真理になることはない。
 元記事を読んだ人々は、皆一様に不快感を露わにしている。むしろ私のブログ記事の方が、まだ穏当なくらいである。

続いて、私のブログ記事が、元記事を意図的に改ざんしたものではないことを論証する。

 
「Business Journal」の記事は、私のブログ記事について、次のように報道している。
開会式楽曲の小山田圭吾“障害者いじめ自慢”、五輪憲章に違反…障害者スポーツ協会幹部が憤慨

 Twitter上や一部のまとめサイトなどは、2006年11月15日にHatenaBlogに公開された「小山田圭吾における人間の研究」というブログへのリンクが貼ってあった。同ブログでは、前出2誌のインタビュー記事の原文を引用し、小山田氏の紙面での談話を明瞭に紹介している。

 編集部は雑誌の原本を確認した上で、この記事を配信している。私のブログ記事に、北尾修一氏が主張するような意図的な切り貼りがあるなら、このような記事にはならない。

 私が最初の記事を書いたのは15年前である。雑誌『Quick Japan』(vol.3)は今でこそ品切れだが、こないだまでamazonに在庫があった。国会図書館にはあるし、コピーも頼める。読もうと思えば誰でも読めたのであり、私が「意図的な編集」をしたというのであれば、もっと早くにそういう批判があったはずだ。
 そういう批判がなかったのは、私のブログがきっかけで同誌を入手し、元記事の全文を読んだ多くの人が、それでも私と同じ意見を持ったということの証左である。
 私の引用は、著作権法の規定に基づいているフェアなものである。
 つまり、出展を明らかにしている。自分の考えと引用した部分とを分けている。必要な部分のみ引用している。原文を忠実に引用し、引用した部分の内容の改変はしていない。

「意図的な切り取り」による印象操作にだまされるほど、読者はそこまでバカではない。まあ、バカもいるが。

 そもそも、雑誌の記事をブログに全文載せるのは、著作権法違反である。だから必要な箇所しか引用できない。
 引用するのにもルールがある。 自分の意見がメインで、記事の引用はそれに必要な箇所しかできない。
 町山智浩の映画批評は、映画の結末まで明かしているが、それは町山智浩の批評がメインなので許される。しかし、たんに映画のストーリーを紹介するだけの「ファスト映画」は、著作権侵害で摘発された。そこにはグレー部分もあるが、著作権法によって、線は引かれている。
 
 そのことは編集者である北尾修一氏もよくご存じのはずなのに、「意図的に切り取って」「並べ替えた」と書かれたことには、憤りを感じている。
 それなら文芸批評も、映画批評も、学術論文もすべて、著者が「意図的な編集」をしていることになる。
 ある小説を論じるのに、小説本文すべてを掲載しないといけないのか、アホな。
 北尾修一氏が経営する百万年書房の書籍が、新聞等で書評されるとき、一部を切り取らずに本文すべてを掲載しろ、と主張するのか。文章の一部を引用して論じる書評家に向かって、意図的な切り取りはやめろ、と言うのか。
 私のブログ記事もまた、私の批評がメインであり、その論証のために元記事の必要な箇所を引用している。その引用が著作権を侵害しているというのなら、いつでも削除できる。引用部分がすべてなくなっても、私のブログは成立する。むしろそうした方がいいかもしれない。

逆に、北尾修一氏が主張するような、私が意図的に削除したとされる部分をすべて掲載しても、記事の印象は変わらない。なぜなら『Quick Japan』の元記事は、読者の良識を逆なでするよう細部まで作りこまれているからだ。

 これは雑誌の現物を見た者でないとわからない。
 藤子不二雄の『魔太郎がくる!!』を手にした小山田圭吾の表紙、ポーズを決める小山田圭吾のグラビアにつけられた「だから、何かほら、『ロボコン』でいう『ロボパー』が転校してきたようなもんですよ」というキャプション。そして本文に付けられた悪意に満ちた注記、例えばそれは「こいつチンポがデッカくてさ」という小山田のセリフに、「性器の大きないじめられっ子、というストーリーは筆者(村上)の通学した大阪の高校にも見受けられた」という注がつけられているといった具合である。
 壮絶ないじめ描写に加え、こうした悪趣味なディテールこそ、この記事の本質であると思うが、長くなるので項を改めて論じる。
 また、記事の最後の年賀状にしても、北尾修一氏の感想とは違い、「ここまでやるのか」と私は思った。さんざん虐待をした後に、最後のとどめを刺したような感じがした。私の感想の方が、間違っているのだろうか。
 記事本文で小山田は「僕は出してなかったんだけど」と語っているのに、年賀状には「手紙ありがとう」と書かれているのも謎である。北尾修一氏は、この年賀状を小山田圭吾が沢田君からもらったもので、それが友情の証だとして論を進めているが、ネットには撮影のために友人から借りてきたとの説もある。こうしたことは、事実がはっきりしてからでないと何も言えないのではないか。

村上清が「壮絶ないじめサバイバー(生還者)」だというのも、北尾修一氏が初めて公にしたもので、それは本人からそう聞いたというものだから、事実かどうか検証するのは難しい。

 記事の中で村上清は、「僕自身は学生時代は傍観者で、人がいじめられるのを笑ってみていた。短期間だがいじめられたことはあるから、いじめられっ子に感情移入する事は出来る」と書いている。短期間? これが「壮絶ないじめサバイバー」であろうか。
 またこんなプライバシーに関わることを本人の了承を得ず公にするのは、アウティングの問題もあり、まずいのではないか。もしもそれが、自分の主張を有利に進めるために利用したということなら、なおさらである。こうした事実かどうかわからないことをもとに妄想を積み重ねるのは、「意図的な編集」と同等に悪質だとは思わないのだろうか。
 これも項を改めて論じようと思っている。

 北尾修一氏は、元記事を全文読んでから判断してほしいと読者に呼びかけ、自身のブログに元記事の全ページを掲載しているが、これは明白な著作権侵害ではないか。
 北尾修一氏は、こう書いている。(引用元「いじめ紀行を再読して考えたこと 02-90年代には許されていた?」)

 これはどう読んでも「加害者のいじめ自慢」もしくは「いじめはエンターテインメントだと推奨する記事」にしか思えない。
 当時の自分は、これをスルーするほど感覚が狂っていたのだろうか……?

 人に問うまでもなかろう。
 まさか出版社の社長を相手に、著作権法について説明することになるとは思わなかった。
 この項続く。
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