芸術家の政治責任

「表現の不自由展・その後」が政治的に偏向してるのは明らかである。
 Chim↑Pomなら「気合い100連発」ではなく、「ヒロシマの空をピカッとさせる」が選ばれるべきだ。これは2008年に、広島原爆ドーム上に飛行機雲で「ピカッ」と描いた作品で、被爆者団体や市民らの「不快」だという抗議により、Chim↑Pomは予定していた広島市現代美術館での個展を中止に追い込まれた。このことは多くのメディアで報道され、決して大げさではなく日本現代美術史に記録されるべき事件であった。
 まさに、「言論と表現の自由」が脅かされた作品である。
 しかしながら、「ピカッ」ではなく、「気合い100連発」が選ばれたのは、それが「表現の不自由展・その後」を主催する者たちの政治思想に合致するからである。表現の自由を弾圧するのは、あくまで政府機関でなければならず、善良な被爆者団体や市民の抗議によって抹殺させられた作品というのでは、都合が悪いのだ。
 でありながら、その「気合い100連発」さえ、芸術を解しないネトウヨから震災の被災者を揶揄しているなどと誤解され、炎上しているのを見ると憫笑するしかない。私は「気合い100連発」をすぐれた作品だと思っているし、何度見ても泣きそうになるが、かといってこの炎上について擁護する気にはならない。それは「表現の不自由展・その後」に出展されているすべての作品について、中にはすぐれた作品もあると思いつつ、擁護する気にならないのと同じ気持ちだ。
 Chim↑Pomは公式サイトで「気合い100連発」を、「この作品自体は、反原発とか、政治的な立場はまったく取ってない」と解説している。何を甘えたことを、と思う。福島第一原発事故をモチーフに作品を発表すれば、政治的な立場を問われるのは当然ではないか。
 それは「間抜けな日本人の墓」と訳されて炎上した中垣克久や、昭和天皇の写真を焼いたと誤解されて炎上した大浦信行も同じである。
 かまくら型の外壁に憲法9条尊重、靖国神社参拝批判、安倍政権への警鐘などの文言を貼り付け、日の丸と星条旗をあしらった政治的作品を発表しておきながら、中垣克久は、「僕は自分の作品をみんなが見て大笑いするんじゃないかと思って作った」「僕たちはファインアート(純粋芸術)で、なんの意味もなく作っている」と話している。(「Ameba TIMES」2019.08.09 19:15)
 天皇コラージュ事件で最高裁まで争った大浦信行もまた、「反権力の観点から天皇制を批判したとか、そういうイデオロギー的な関心じゃないんです」「自分の中に無意識に抱え込んでいた“内なる天皇”を自画像を描くなかで描いてみたいと思ったんです」と答えている。(「創」8/7 16:02)
 このように、政治的作品を発表しておきながら、自分の政治的立場については言葉をにごす芸術家を見るたびに、逃げていると感じる。なぜ堂々と自分は反原発だ、反政府だ、反天皇だ、と主張しないのか。
 彼らの芸術作品の「真の意図」などを訳知りに吹聴し、擁護に回る者たちも同様である。これでは、おれは右翼だ、愛国者だ、と臆面もなく主張する者たちに立ち打ちできまい。ここで問われているのは作品の芸術的評価ではなく、その政治的意図なのだ。それを避けていくら議論をしても、無意味である。
 自分はただの芸術主義者だから、政治的立場などない、何も考えていない、というのも立派な政治的立場の表明である。愛も平和も金儲けも、政治である。政治的でない芸術などないのだ。そのことに彼らはあまりに無邪気ではあるまいか。
 はじめに私は、「表現の不自由展・その後」は、政治的に偏向していると述べた。もっとはっきり言えば、芸術を政治利用した愚劣なプロパガンダである。表現の自由への介入も、プロパガンダも、どちらも芸術を政治利用しているのだ。
 表現の自由を問うなどというのは口実で、この主催者の真の目的は、日本の戦争責任の追及である。ならばそういうテーマで好きなだけ討論会でもやればいいのであって、芸術を利用すべきではない。また芸術家は、このようなプロパガンダに加担してはならない。
 芸術家は無邪気であっていいかも知れない。しかし無邪気さゆえに、偏向したイデオロギーに利用され、戦争画やプロレタリア絵画に手を染めるというのであれば、その無邪気さは罪である。

たのしいプロパガンダ (イースト新書Q)

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