黛敏郎における政治と音楽

 片山杜秀『平成精神史』を読む。
 黛敏郎という天才作曲家について考察した第五章が出色である。
 日本的価値観に基づく楽曲や保守思想で知られる黛敏郎であるが、当初は異国情緒あふれるモダンな作曲家として活躍していた。ジャズ・バンドでピアノを弾いていたこともあるし、『カルメン故郷に帰る』など多数の映画音楽を手がけている。
 ミヨーやプーランクイベールやジャズを取り合わせた戦間期パリ風の『10楽器のためのディヴェルティメント』や、インドネシアガムランラテン音楽のリズムと色彩に満ちた『シンフォニック・ムード』といった初期作品。1951年にパリに留学後は、ヴァレーズとメシアンに影響を受け、ミュージック・コンクレートや電子音楽にもいち早く取り組み、ジョン・ケージやプリペアド・ピアノなどの前衛音楽の紹介にも務める。

 その頃の黛敏郎の作曲上の問題意識は、同時代の岡本太郎と似ていたかもしれません。現代の抽象的な芸術をふまえながら、抽象の中に、あくまでも人間の原初的で根源的で強烈で暴力的とも言えるエネルギーを探求すること。黛の興味の方向はそこに尽きてくるものでした。電子音楽で電気的なピーポーというような音を使ったのも、ミュジック・コンクレートでアシカの鳴き声や工場の騒音や戦場の爆音を録音加工して音楽に利用したのも、そういう音に何らかの生命力や神秘力を感じていたからに他なりません。戦後初期からのアジアの民族音楽やジャズへの耽溺も根は同じです。黛は漲る力をいつも感じていたい人なのです。見てくれはどう変わってもそこは一貫しています。いつも怒張するものを求めるところは、黛と戦争や軍隊や何か暴力的なものの相性を極めてよくしてしまう、ひとつの理由でもあるのですが。(同書153頁)

 そんな黛敏郎が、映画音楽の仕事で京都に滞在中に、お寺の鐘(梵鐘)の音や仏教の声明に魅了され、それをオーケストラに取り入れた『涅槃交響曲』を発表する。この作品が黛の名声を不動のものにする。

 その作品は昭和三〇年代のうちにベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やニューヨーク・フィルハーモニックなどによって演奏されていました。武満徹に先駆ける大スターでした。レナード・バーンスタインをはじめとする名だたる指揮者が黛の音楽を取り上げ、代表作のレコードは欧米でも発売され、日本人として初めてハリウッド映画の音楽を担当し、ヨーロッパの一流歌劇場から新作の委嘱も受けました。ジョン・ヒューストン監督の『天地創造』(1966年・昭和41年)やベルリン・ドイツオペラ『金閣寺』(1976年・昭和51年)がそうです。おまけに演説をしても司会をしてもそつがない。テレビの音楽番組『題名のない音楽界』の司会者としてお茶の間にも長年知られ続けた人なのです。
 ちなみに『題名のない音楽界』は、出光興産の一社提供です。出光興産の創業者・出光左三は反共主義者として著名な人物で、いわば彼が黛敏郎のスポンサーとなる形で『題名のない音楽界』を自由にやらせたのでしょう(147頁)

 だが、『涅槃交響曲』から黛敏郎の音楽的志向ははっきりと変わっていく。雅楽、能、狂言、歌舞伎、神道、禅など日本の伝統を渉猟し、それらの中に始原的な生命力やエネルギーを見出していく。文化的に洗練される平安時代よりも、「いろんな国の文化芸術が生々しく混じりあってエネルギッシュで荒っぽい」奈良時代の文化に衝撃を受け、のめりこんでいく。そして奈良仏教の音楽に影響されたカンタータ『悔過』を作曲する過程で、薬師寺の橋本凝胤や高田好胤といった宗教界の重鎮と交流を深めていった。
 また、三島由紀夫との親交と、その自衛隊乱入事件への衝撃から、政治的にも右傾していく。憲法第九条の改正を提唱する学者や文化人、財界人や政治家らと「日本を守る国民会議」を結成し、黛敏郎はその議長になる。一方、反共産主義、反ソ連日本的なるものの礼賛、といった主張を掲げる「日本を守る会」という団体があり、こちらは神社本庁や成長の家など宗教右派と呼ばれる勢力の指導的人物が集まっていた。
 この「日本を守る国民会議」と、「日本を守る会」が大同団結してできたのが「日本会議」である。
 しかしなぜ、性質の異なる文化人の団体と、宗教家の団体が統合できたのか。著者の片山杜秀は、この「宗教の世界と文化の世界と政治の世界と実業の世界を」、しっかり結びつけた人物こそ黛敏郎であると指摘する。

 黛は、天皇を中心にした日本的価値観の復権を唱え続けました。日本を守るためには、自衛隊ではなく軍隊が必要だ。そのために改憲をしなければならない。国家への忠誠心を培うために、教育勅語も復活させるべし。強い、雄々しい日本を取り戻したい。黛が音楽を通じて求め続けた原初的エネルギーへの渇望は、政治の世界に転化してしまった。
 黛は、政治と芸術を分離して別の価値で仕切ることができませんでした。そこにはあまりに純な気質ゆえの、子供じみた飛躍が認められるでしょう。力強い音楽は力強い軍隊と一緒にならずとも別によいはずです。ところが黛は、次元を異にする領域にも一貫性を求めました。その根源には梵鐘と声明への底知れぬ感激があり、それらをかたちあらしめる日本の伝統への特別な畏敬があり、そういう伝統を軽んじているとしか思われない戦後日本への怒りがある。声明や梵鐘は断じて守られ、愛されなければならない。そうした価値観を共有できる国民に満たされた日本が、きっと黛にとっての「美しい日本」なのでしょう。(161-162頁)

 かくも美的な見地に立った運動家が魂を入れた日本会議とは、やはり並大抵のものではありますまい。政治団体政治団体的であるためには妥協を知らねばならないが、一途な美には妥協はない。宗教にも文化にも妥協はない。折衷主義を容認しないならば。その核心部分において、日本会議は政治的ではなく、美的・宗教的であるから、恐ろしいのです。(162-163頁)

 音楽家が政治的発言をするのはさして珍しいことではないし、それだけなら影響も少なかろう。しかし黛敏郎の場合は、それに政治力の裏づけがあった。政財界や仏教界の重鎮との交流を通じて、チカラを持つようになった。人を動かし、世の中を動かすほどのチカラを持った音楽家ほどおそろしいものはない、と私は思う。
 これは余談だが、黛敏郎のスポンサーであった出光興産の創業者をモデルとした小説が百田尚樹の『海賊とよばれた男』である。

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