だます人、だまされる人

『ものの見方考え方・第2集・手品・トリック・超能力』(季節社)という本に、佐藤忠男「『だます』ことと『だまされる』こと」という論文が載っている。そこで紹介されている伊丹万作のエッセイが興味深いので、孫引きになるが紹介してみたい。
敗戦の翌年、雑誌『映画春秋』(1946年・8月号)に、伊丹万作が『戦争責任者の問題』というエッセイを発表した。それは次のような内容だった。

さて、多くの人が今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲では、おれがだましたのだといった人間はまだ一人もいない。
……多くの人はだましたものとだまされたものとの区別ははっきりしていると思っているようであるが、それがじつは錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の知恵で一億の人間がだませるわけのものではない。

いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
伊丹万作エッセイ集』(筑摩書房


これはまさに、丸山真男が指摘した「無責任の体系」である。
調べてみたら、丸山真男の『超国家主義の論理と心理』が発表されたのが、1946年、雑誌『世界』5月号だから、おそらく伊丹万作はこれを読んで参考にしたのだろう。それでも、だまされた人が、次の瞬間にはべつの誰かを、だます人になる、という指摘において、丸山より一歩進んでいる。
佐藤忠男は、これを受けて「この指摘は痛烈なものであり、自分はだまされて戦争に協力していたにすぎない言って責任を逃れたつもりになっている人々の心の中の自己欺瞞を容赦なくひんむく発言であった」と書いている。そして自分の子供時代を振り返って、次のように書く。

たとえば、当時かりに、大人の誰か、戦争の本当のことを知っている人がいて、この戦争は負ける、とか、日本がやっていることはこんなにひどいことなんだ、とわたしのような少年に語ったとする。
学校からも新聞やラジオからも、戦争には必らず勝つ、なぜなら日本は正義の側だからだ、と教えこまれ、そう信じていた私は、逆のことを言う大人の存在にびっくりし、それは嘘だ、と思うだろう。
単純な嘘として聞きながすにはあまりに重大な嘘だ、と思って、心の中にしまっておけなくなるかもしれない。たぶん、警察や憲兵に密告するというほどのことはしないと思うが、友達の誰かに喋るというていどのことならやったかもしれない。そして、友達がまた誰かに喋って、ついには警察に耳に入るということならあり得た。
つまり、たしかに私のような子どもは大人にだまされていたが、だまされた私たちが次には逆に、本当のことを言いたかったのかもしれない大人たちに、本当のことを言ったら許さないぞと監視する一面もあった。
(前掲書・169ページ)

超能力・トリック・手品 (ものの見方考え方文庫)

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