一回でじゅうぶん

まず必要なのは、物事を論理的に考える能力である。
「あなたが不幸になったのは、先祖の供養が足りないからです」などという妄言にだまされるのは、論理的思考が足りないからである。議論に負けて悔しい思いをするのも、論理的思考が足りないからである。
論理的思考力を身につけたいなら、香西秀信『議論術速成法』(ちくま新書)を読むといい。しかし、最近の香西氏は、そうした「論理」のありかた、そのものを問おうとしているようだ。
『論より詭弁・反論理的思考のすすめ』(光文社新書)の帯は、「みなさん、いままで論理的に考えてきて、何かトクしたことありますか?」というものだった。香西氏は、詭弁のなかにも、部分的な正しさがあることを、実例をもって示した。
その論旨は近著、『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』(ちくま新書)で、さらに深められている。
たとえば、インチキ宗教にだまされる人がいる。
彼らはバカだからだまされるのではない。むしろ物事を論理的に解明しようとする欲求が強い人ほど、だまされるのである。
とても不幸な目にあった人がいるとする。なぜ自分だけに、こんな不幸が襲いかかってくるのか。何か根本的な原因があるはずだ。いくら考え詰めても自分では答えが見つからない、そうして、それをうまく説明してくれる人の言葉にすがりつく。「それは先祖の供養が足りないからです」と言われ、高価な仏壇を買わされたりする。論理的な欲求が、非論理的な結末をもたらしてしまうのである。
たとえ自分ひとりが不幸な目にあったとしても、そんなものはただの偶然、運が悪かっただけ、と割り切り、納得できる人ならば、そうしたインチキ宗教にだまされることはない。
この本では、こうした論理的思考の落とし穴や、逆説がいくつも紹介されていて、考えさせられる。
とくに、第五章「性急な一般化」での事例がおもしろい。
もしあなたが中華料理屋に入り、そこで注文したスープにゴキブリが入っていたとする。あるいは、寿司屋で食べた寿司で、食あたりになった。あなたはそういう店にもう一度いきたいと思うか。
論理的に考えるなら、たった一回ひどい体験をしたからといって、それでその店の料理全体は判断できない。なによりもそれは、その店で出される料理の公平なサンプルですらない。
あなたのスープにだけ、たまたまゴキブリが入っていたのだ。あなたの食べた寿司だけが、たまたま腐っていたのだ。他の客は平気だった。そう考えることは論理的に正しい。しかし、いくら論理的に正しくとも、あなたはその店にこれからも通うだろうか。香西氏はそのように問い、次のように述べている。

だが、ゴキブリは一度入っていればじゅうぶんである。
たとえその判断が非論理的であろうとも、われわれはそんな店には二度と出入りしない。そして、そのことにより、われわれはほとんど不利益を被らない。食事をする場所が一つ減るだけである。おそらく、われわれが性急な一般化を容易に犯してしまうのも、これに類した事例が多いからではないか。
例えば、私がある国の留学生に本を貸したところ、いたるところにボールペンで傍線を引かれて帰ってきた。それ以来、私はその国の留学生には二度と本を貸さない。が、線を引いたのはあくまでも一人の留学生のことだからと、別の留学生に快く本を貸したら、また線を引かれて戻ってくるかもしれないではないか。
ある鮨(すし)屋であたったら、普通は二度とその店には足を踏み入れない。それを、あたったのは一度だけだからと、凝りもせず通って再びあたったら、その人は論理的ではなくただの馬鹿である。
(166ページ)


たった一回のことであれば、それは偶然である。いや、そう断言してしまうところにも盲点がある。香西氏は最後に、小林秀雄の言葉に触れて、こう述べている。

旱魃(かんばつ)の時、祈祷師が乞われて、雨乞いの呪文を唱えた。九九回は何も起こらず、一回だけ雨が降った。
われわれはこれを偶然だと言う。その呪文を唱えた時、たまたま雨が降ったのだ、と。だが、その一回だけは、本当に彼の力で雨が降ったのかもしれないではないか。彼は九九回失敗し、一回成功したのである。
小林(秀雄)は、よほどこの問題が気になったのか、『本居宣長』の中でも、宣長上田秋成に向けて書いた、ある譬え話を引用している。同じ歌の書かれた色紙が十枚あるが、本物は一枚だけであり、他は偽物である。このとき、全てを一括して偽物として扱えば、少なくとも偽物をつかまされることはない。
だが、偽物に欺かれまいとすることが、そんなに賢いことなのか。それによって、正しい一枚も、手にすることができなくなるのである。
(181-182ページ)


いかにも小林秀雄らしい言葉だなあ。これはオカルトを擁護する強力な言葉である。ほとんどは偽物だけど、私だけは本物の霊能力者なんですよ、なんて言い出すやつがきっと出てくるだろう。そして論理的に考えれば、そいつが本当に「本物の霊能力者」である可能性もゼロではない。
しかしよく考えてみると、十枚のうち本物が一枚ある、という前提がおかしい。十枚すべてが偽物という場合もあるではないか。
論理的であろうとするあまりに、誤ることがある。この本はそのことに気づかせてくれる。科学者がオカルトに走るのも、法律家がおかしな主張をはじめるのも、「論理病」に凝り固まっているせいであろう。