呉智英『大衆食堂の人々』で紹介されていたが、もとは宮崎市定の『アジア史論考』にあるエピソードらしい。
ある誠実な教育者の話である。
数学者でもある彼の生徒に、とても頭がよい少年がいた。しかし家が貧しいため進学することはできなかった。
くじけるんじゃないぞ、勉強は自分一人でもできるんだ。
教師は少年をそう励ました。
三十年がたった。老境にさしかかった教師の家に、四十歳すぎの男が訪ねてきた。
そう、かつての生徒である。
先生の励ましの言葉を忘れず、農作業のあいまに、いつも紙と鉛筆をたずさえ、ひまを見ては勉強をしておりましたが、先日、大発見をいたしました。ご覧ください、これがその大発見です。
男がわらばん紙に数字を書き連ねたものを出し、数学者は、それを受け取って見た。数学者は、そこに、あまりにも残酷な現実というものを見て、力なく、ああ、と言うしかなかった。
わらばん紙に書かれた大発見がまちがっていたわけではない。その大発見は正しかった。だからこそ、いっそう残酷だったのである。
そこには、二次方程式の解法が正しく記されていたのだ。
この人は、たった一人で、三十年かかって、二次方程式の解法を発見したのだ。
それは、たしかに偉業である。だが、二次方程式の解法など、上級学校でわずか半年間の間に習うのである。四十歳過ぎた男が、どれほどのひらめきと努力の結果、三十年かかって二次方程式の解法を発見したのだとしても、何の意味もないのである。
(呉智英『大衆食堂の人々』双葉文庫・132頁)
よくできたエピソードなので、作り話めいている気もします。
数学がそれほど好きなら、二次方程式の解法など、とっくに発見されていることを知っているはずではないか。また、二次方程式レベルの数学も知らずに、それを独力で発見するような高度なことが、できるものだろうか。なんてことを思いますが、寓話としてはなかなかおもしろく、さまざまな教訓を得ることができます。
たとえ才能があっても、努力の方向をまちがえると、まったく徒労に終わってしまう、とか。
やっぱ義務教育は必要だな、とか。
功名心からではなく、その青年が純粋に数学が好きなのであれば、たとえ意味のない「大発見」であっても、それはそれで、よいのではないか、とか。
東野圭吾の『容疑者Xの献身』を読んだ後にも、ふと、このエピソードを思い出したりしてね。
- 作者:呉 智英
- 発売日: 1996/07/01
- メディア: 文庫