有名人と無名人

 竹中労『芸能人別帳』(ちくま文庫)の解説で、関川夏央が次のように書いている。

竹中労が現在の日本の芸能ジャーナリズムの原型をつくった。
戦前、世間は芸人を見くだしていた。見くだしつつ芸人の芸を愛していた。芸人の側には芸を誇る気持はあっても尊大さはなかった。
「錦着て畳の上の乞食かな」と双方ともに無言で了解するところがあった。
ここに戦後民主主義というものが加わると、芸人は芸能人と呼び換えられた。「彼もひとなりわれもひとなり」をいきなり飛び越えて一九五〇年年代には「ホメ屋ジャーナリズム」が流行することになった。
「ホメ屋といってもバカにしつつもちあげるんだから品がない。結局はもっと差別的になっただけなのに、自分が偉くなったんだと勘違いする芸人も出る。ホメ屋ジャーナリズムに抵抗したのは南部僑一郎だけだったね」
南部僑一郎は映画評論家を兼ねた芸能ジャーナリストで、南僑と愛称された人である。
竹中労は芸能人をおなじ仲間とみなした。
社会の底辺にあって技芸だけで生きる、その技芸で世間に衝撃と影響を与えることができるという意味で、トップ屋と芸人はおなじだと考えた。
「芸があるひと」「性格のいいひと」「性格は悪いが芸のあるひと」はみとめたが、「芸のない有名芸人」と「分をわきまえず偉ぶる芸人」を徹底して憎んだ。
(同書解説「『トップ屋』竹中労はなぜ芸能記事を棄てたか」より引用)

「錦着て畳の上の乞食かな」というのは、誰の言葉であろうか。
 ネットで調べるとどうやら、四代目か五代目の団十郎の言葉らしい。
 永六輔の『芸人』(岩波新書・110ページ)によると、何代目かの団十郎の言葉とある。ただしこの本では、「錦着て布団の上の乞食かな」となっている。「畳の上」と「布団の上」のどちらが正しいのか、はっきりしない。

 おれはかつて、永六輔がわりに好きだったのだが、途中から信用しなくなった。たしか『無名人語録』なんかの頃から、うさんくさく思うようになった。
 永六輔は「無名人」などというが、世の中に「無名人」なんかいないと思っている。みんなそれぞれ固有の名前を持って生活している。それが「無名」に見えるのは、永六輔が有名人だからだろう。その庶民派を装った傲慢さがきらいである。
 市井の人の「語録」を採録するのはいい。しかし言葉は、誰が言ったか、というのが重要なのだ。永の『無名人語録』には、その言葉を言った人の名前が書かれていない。言葉だけが取り上げられ、『無名人語録』という永六輔の本として出版される。これほど残酷なことはあるまい。
『芸人』(岩波新書)という本もそうである。
「本文の語録は、無名の人たちのものが大部分なので名前はない。『大往生』以来、名前はなくても言葉は重い」(口上)と平然と書く無神経さにあきれる。無名の芸人の言葉だからこそ、その語録に名前を残してやるべきではないか。他人の言葉を採録して、出展も明かさず、何冊も本を出すとはいい身分である。
 花柳幻舟は、永六輔について、次のように書いている。

”芸人の世界”というのを、『話の特集』という雑誌で書いてるけど、自分に都合のええことばっかりウソ八百、好き放題書くねん、この男。
花柳幻舟『オッサン何するねん!』データハウス・135ページ)

 たしか永六輔の本で読んだ、こんなエピソードを思い出した。*1
 むかし永六輔が、まだ若い花柳幻舟に食事をご馳走したことがあったという。花柳幻舟は、レストランのテーブルに並べられた豪華な食事を見て、
「お父ちゃんにも、食べさせてあげたいわ」と言ったという。
 美しい言葉だ。

小学校中退、大学卒業

小学校中退、大学卒業

*1:おれの記憶によるので、まちがっているかも知れない。出典がわかればあとで訂正したい。しかしまあ、「こまけぇこたぁいいんだよ!」の精神である。