動物を殺してはいけない

 小学校の教師が生徒に豚を育てさせて、最後にはそれを殺して食べるという授業をやったことがあって、これは『ブタがいた教室』という映画になった。こどもたちに命の尊厳を教えるというので、似たような試みはその後もあちこちで行なわれている。だが、動物を殺して食べることで、本当に命の尊厳が学べるのか。動物の命に、尊厳はないのか。
 人間もまた動物であるにもかかわらず、その関係は対等ではない。他の動物は私たちの食料となるために創造されたとか、人間は全宇宙の中で特別な存在であるから他の動物を支配し利用する権限があるとか、そのような人間中心主義の考えは西洋からもたらされたもので、日本には仏教の影響で動物の殺生や肉食を禁じる考えもあった。瀬戸内寂聴のように平気でステーキもフォアグラも食らう僧侶は、仏教の堕落である。
 殺さなくてもよい動物をわざわざ殺して食べるというのは、たとえ仏教徒でなくても、許しがたい感覚を伴うものである。このような授業は教師の思い上がりであり、人間の傲慢である。
 ピーター・シンガー/戸田清:訳『動物の解放』を読む。
「本書は、私たちがヒト以外の動物をどのように扱うべきかという問題について、綿密で、論旨の一貫した考察をしようと試みたものである」(14頁)
 すべての人間は平等である。この原則から黒人解放運動や女性解放運動が生まれた。人間を人種や性別などで差別するのは間違っているというわけだ。ピーター・シンガーはこの原則をすべての動物にまで拡張する。すべての動物は平等である。したがって、犬やブタや牛やウサギやマウスなど、ヒト以外の動物に対する差別も許されないのだ。
「もし特定の人が、知的能力が高いからといって他の人間を手段として扱うことが許されるわけではないのなら、どうして人間が同じ目的で他の動物を搾取することが許されるだろうか?」(27-28頁)
 しかしながら、ほとんどの人間は、ヒト以外の動物を差別する「種差別主義者」である。
 化粧品や医薬品の開発のために残酷な動物実験を行い、毛皮や肉を得るためにためらいもなく殺すのだ。動物は苦痛を感じることができる。その点において人間と何ら変わらない。ピーター・シンガーは「苦しみはできるだけ小さくすべきである」と主張する。動物に苦痛を与えないこと、これが動物解放の原則である。人間がもし激しい肉体的苦痛から解放される権利を持っているならば、動物もまたこの権利を持っているのである。
 こうして人間と動物との間にある境界線は取り払われる。その結果どういうことになるかというと、人間の倫理の、人間中心主義があらわになるのだ。私たちは人間に対しては正義を行なう義務を負っているが、他の動物に対してはそうではない。だが、そのことじたい正義に反するのではないか。人間には「固有の尊厳」や「固有の価値」があるという。だがそれを言うのは人間であり、人間によって名誉を剥奪される動物たちはそれに異議を唱えることができない。選挙権もなく被害を訴えることもできない動物を救うことこそ、究極の利他主義である。
「なぜすべての人間が――幼児、精神障害者、犯罪的な精神病質者、ヒトラースターリン、その他を含む――が、象や豚やチンパンジーは持つことが許されない何らかの『尊厳』あるいは『価値』をもっているとしなければならないのか」(303頁)
 ピーター・シンガーはもっと挑発的なことも書いており、そのため障害者差別だとの非難も受けている。たとえば、どういうことか。
 人間は他の動物よりすぐれた知能や能力を持っているがゆえに、特別な存在なのだということで動物への差別を正当化しようとすると、それはそのまま人間同士の差別に跳ね返ってくる。それならば、チンパンジーより知能も能力も劣る人間を、差別してよいか。そういう人間(ピーター・シンガーは幼児や重度の精神障害者と書く)を、動物の代わりに人体実験してよいか。そういう人間を飼育して殺して食べてもよいか(304頁)。誰もそれが許されるとは思わないだろう。ならば動物に対するそれらのひどい扱いもやめるべきである。
 権利も道徳も常識も、それがすべての動物に拡張されることによって、人間は自らが生み出した思想によって逆襲されるのだ。

動物の解放 改訂版

動物の解放 改訂版

koritsumuen.hatenablog.com