一周回ってガチの差別者

 筒井康隆は『ブログ偽文士日録』で、「長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」と書いた。これについて非難する者がいたが、もともとあんな人だ、筒井康隆らしい発言だ、という声に押されて黙ってしまった。
 しかし、もともとあんな人だから許されるというのは、おかしくないか。むしろ、ガチの差別者をこそ糾弾すべきであり、そのための論理を身につけるべきであり、「もともとあんな人」と言われて黙るようであっては何のための人権派か。
 朴一『僕たちのヒーローはみんな在日だった』(講談社)に、団鬼六差別意識を暴いた記述がある。

 団鬼六が神戸のスナックで気高く美しいKというホステスに出会う。その女にぞっこんになり、その女を何とか口説こうと思って毎日その女のいるスナックに通う。ある日、その女が店を休んでいた。バーテンダーにチップをはずんで、彼女の住所を聞き出して、彼女の家を訪ねる。
 彼女は工場町の路地裏にあるバラック建ての家屋に住んでいた。表のガラス戸を開け、見舞いに来たことを告げると、家に上がれと言う。鬼六が家に入ると、部屋には韓国語で書かれた新聞が散らかっていた。そのとき初めて、鬼六は彼女が在日コリアンであることを知る。その瞬間、体中から血の気が失せていったと鬼六は述懐し、彼女へのイメージはあこがれから嫌悪へと変わる。そのときの感情の変化を鬼六は次のように表現している。
「外面綺麗に装って、怪しい色気を発散させている夜の蝶も、一皮剥けば、こんなものなのか、と私は、彼女達の秘密をそこに見出した様な気持ちにもなったのである。時折、空想して、もしK子と体の関係が生じた暁には、もとより、緊縛プレイ、飼育してMに育て上げようなどと甘く考えていたがそれは彼女が心身共に清く美しく、また可憐なものにこっちの眼には映じていたからであって、しかし、彼女の正体を知り、横板に四角の穴をぶちあけてある彼女の家の瓦を見てからというものは、どうも、そうした甘い気持ちがわいてこない。空想するときの対象物として彼女は失格してしまったのである」(団鬼六「一皮剥けば」『奇譚クラブ』一九六九年三月号)
 彼女の正体を知った鬼六は、すっかり彼女に興味がなくなってしまう。ヒロインは美しいだけでは駄目で、上流階級の香りのする高貴な女性でなければならない。下層階級に属する貧しい在日コリアンでは話にならないというわけである。このエッセイは、自分が恋してしまった女が在日コリアンだったことを知り、恋愛感情が全部吹っ飛んでしまったということを告白したものだが、小説ではなくノンフィクションとして、ここまで在日コリアンへの屈折した感情をありのままに描いた作品は珍しい。しかし、当時、在日コリアンにこうしたイメージを抱いていたのは鬼六一人ではないだろう。鬼六の独白は、当時の日本人が在日コリアンに抱いていたごく一般的な感情を代弁したものといえるだろう。
 ところで、鬼六は知っているのだろうか。映画化された数多くの鬼六作品のヒロインに在日コリアンの美人女優が数多く出演していたことを。もし、鬼六がこの事実を知っていたらどう思ったか、聞いてみたいものである。(69-71頁)

 朴一はこのように書くのだが、残念ながらこの事実を知ったところで、団鬼六は何も変わらないだろう。たとえ映画のヒロインで美人女優であっても、在日コリアンというだけで嫌悪しただろう。なにしろ団鬼六はSM作家である。女を差別して当然である。「もともとあんな人」である。
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