推理小説を読む阿呆に書く阿呆

 森博嗣の『小説家という職業』(集英社新書)。
 これは小説家になるための指南書なのだろうが、森博嗣はこう書いている。
「もしあなたが小説家になりたかったら、小説など読むな」
 これは逆説でも皮肉でもなくて、森は本当にそう確信しているようだ。「小説がそれほど好きではない」という森は、子供の頃は読字障害かと思うほど文章を読むのが苦手。国語の成績は最低。それでも、四十歳手前で初めて書いた推理小説がすぐに出版され、この十年間で毎年100万部以上出版されるほど売れて、死ぬまで遊んで暮らせるほどの金を得た。
 とはいえ国立大学の教授で工学博士というのであるから、バカではあるまい。学生相手に、「教授になりたければ本など読むな」と指導しているのかは知らないが、そこまでやれば立派である。
森博嗣ミステリィ工作室』には、自分が影響を受けた本100冊をあげて、そこには、クイーン、カー、クリスティ、といった往年の名作から、ジェイムズ・エルロイブラック・ダリア』、夢野久作ドグラ・マグラ』、埴谷雄高『死霊』、竹本健治匣の中の失楽』といった癖のある大長編までずらりと紹介している。しっかり、読んでるじゃねえか。それともこれは読まずに、書いたか。
 本業の学者としては、自分の自由のために、「他人が自分を好きになること」を犠牲にして、「直接の人づき合いというものをほとんどしなくて」、土日も休むことなく、毎日最低でも12時間は勤務して、「四半世紀にわたって国家公務員として大学で研究してきた」というのだからすごい。
 森博士の研究業績はまったく知らないが、おそらく、たいした研究ではあるまい。こういう性格の学者が、世のため人のためになる研究など、できるはずがないし、する気もなかろう。
 それで森先生は稼いだ金をどうしているかというと、クルーザーを買うわけでもなくソープに行くわけでもなく、自分の趣味であるラジコン飛行機や模型機関車の製作につぎ込んでいる。おたく第一世代には、たまにこういうバケモノがいる。
 それでなぜ「小説など読むな」と言うのかというと、他人の小説を読むと、その作者の考え方に影響されて、自分のオリジナリティが損なわれるからだ。小説だけでなく、映画や漫画などの人工の創作物には、他者の視点がすでに入っているため、そういうものを見てしまうと、ありのままの「自然」を見ることができなくなってしまう。そういうことを言いたいらしい。
 これは永井均の「唯我論」に似ている。哲学書を読んでプラトンデカルトやカントの考え方を学ぶことが、「哲学する」ということではない。そういうすでに確立している問いは無視して、自分が疑問に思っていることを考え抜くこと、それこそが本当の意味で「哲学する」ということなんだ、ってことでしょ。
 しかし森博嗣推理小説なんかを喜んで読んでいるやつらには、こうした哲学は伝わるまい。とにかく『小説家という職業』における、推理小説やその読者を小バカにした態度は、すがすがしい。
       ◇
 野崎六助『ミステリを書く! 10のステップ』 (東京創元社)という本がある。
 これもまた作家になるための指南書だが、みなさんはこの著者のことをまったく知るまい。おれも知らない。
 全共闘世代の高卒の作家らしい。探偵小説の評論や宮部みゆきの研究本など多くの著書がある。博識であるようだ。この本の中でも、作家になりたければたくさんの本を読めと、書いている。
 しかし残念ながら、野崎六助の本は、森博嗣の千分の一も売れてはいない。なぜなのか。これだけ大量の本を読み、原稿を書いている人が、なぜ売れない推理小説しか書けないのか。
 この本はそういうことを、問いかけてくる。
 もっとも著者は、そんなことを問いかけるつもりなどないだろうが。

小説家という職業 (集英社新書)

小説家という職業 (集英社新書)