春夏秋冬そして春

キム・ギドク監督の映画は、見るのになかなか緊張を強いられ、残酷童話という感じで、動物の虐待シーンがあったりするわけで、それでも『春夏秋冬そして春』は、比較的おだやか、かと。

この映画は、春、夏、秋、冬、そして春、という5つの章にわかれています。

これは、文字通り「四季」を意味すると共に、人間の、少年期、青年期、壮年期、老年期、を表しております。同時に、因果応報や、輪廻転生、という、仏教的世界観の暗喩でもありましょう。

そうした仏教的な解釈が、いささか図式的にも思えますが、なかなか、よくできた映画です。

「春」の章では、法話のようなエピソ−ドが描かれ、「夏」では、僧侶の禁欲生活が、若い女性の出現によって破られるシーンが痛々しくも美しくあり。

「冬」に出てきたマッチョな男が、監督自身だと知って、もっと線の細いイメージだったので、びっくり。

四季があるのは日本だけではない、という当たり前のことに気づかされます。

仏教、侮り難し。とも思いました。

しかしまあ、町田宗鳳+上田紀行『「生きる力」としての仏教』(PHP新書)を、宮崎哲弥氏は、次のように批判します。(『新書365冊』朝日新書)より。

珍無類としか言いようのない仏教論。
「癒し」を研究テーマとし、『がんばれ仏教!』という著作もある上田は、仏教をベースとした広い意味での社会運動を構想しているようなのですが、そもそも仏教は「社会」の実在など認めないのです。
「善悪」や「正邪」も相対的な概念の一つ。戯論(けろん)の一つに過ぎない。
それどころか「生きる意味」や「生の目的」すらも無常の風に吹き飛ばされる砂の器でしかない。
仏教とは、そういうものがすべて幻でも、平然としていられる境地に導く思想です。
それが理解できない限り、上田は仏教とは縁のない衆生です。即ち度し難い(笑)

たしかに原理的には、宮崎氏の言う通りであろうが、どうも、結論がそうであれば、仏教というものをいくら勉強しても、不毛なような気がする。