ゴドーを待ちながら

 不条理劇の傑作であるサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』は二幕の芝居である。一本の木がある田舎道で、二人の男がゴドーを待っている。やがてポッツォとラッキーという二人連れの男が現れる。ポッツォはラッキーを奴隷のように扱っている。彼らが退場すると、少年が現れて、ゴドーからの伝言を告げる。「今夜は来られないが、明日は必ず来る」。ここまでが第一幕である。
 第二幕も、同じ場所で同じような場面が展開する。しかし、細部が少しずつ違っている。木には数枚の葉がついている。ポッツォは目が見えなくなっており、昨日、二人の男に会ったことを覚えていない。ラッキーは口が利けなくなっている。彼らが退場すると、少年が現れ、昨日と同じゴドーからの伝言を告げる。「今夜は来られないが、明日は必ず来る」。二人の男が問いただすと、少年もまた昨日はこの場所に来ていないという。では、昨日来たのは誰か。少年が去り、二人の男は「行こう」と言いながら、その場を離れない。そして劇は終わる。
 この劇が描いているのは、人間の現実認識の頼りなさである、と喜志哲雄『喜劇の手法』(集英社新書)は説く。

人間には時間や空間を正しく認識することはできるのか。同じ場所だと信じているふたつの場所は、本当に同じ場所なのか。昨日だと信じている時間は、本当に昨日なのか。同一の存在だと信じている人間は本当に同じ存在なのか。
(P85より引用)

 
 ゴドーをGOD(神)として、これは神が現れない世界を描いたものだいう解釈は、この劇から不条理さを失わせてしまう。そういう解釈で作られたのであろう『桐島、部活やめるってよ』という映画には、『ゴドーを待ちながら』が描いた「人間の現実認識の頼りなさ」に基づく不条理はない。
 高橋康也は『ゴドーを待ちながら』(白水社)の解題で、次のように書いている。

「ゴドー」を「ゴッド」のもじりと解して、神の死のあとの時代に神もどきを待ちつづける現代人、その寓意的肖像画の画題がここにある。この解釈が抗しがたい誘惑力をもつことは事実だが、同時に、口にするのも気恥ずかしいほど陳腐なのも確かだろう。それに、神の死といったとき、話はあまりにキリスト教的に限定されすぎてしまうのではないか。

喜劇の手法 笑いのしくみを探る (集英社新書)

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