ジャズのようなもの

マイク・モラスキー『戦後日本のジャズ文化』(青土社)を読む。
 著者はアメリカ人。戦後の日本文化に通じていて、ジャズピアニストでもある。ジャズの原点はライブ演奏とコミュニケーションだ、という著者のジャズ観には、説得力がある。
 ところが、戦後日本のジャズ文化は、それとはいささかちがっている。「音」より先に、「観念」がある。とくにフリージャズは、1960年代の日本において、「自由」「革命」「アナーキー」「破壊」の象徴となった。そういう聴き方を喧伝したのが相倉久人平岡正明である。
 そういえば、中上健次村上龍の対談集のタイトルが『ジャズと爆弾』というのも、いかにも、である。
 すぐれたジャズ小説の書き手である五木寛之が、じつはさほどジャズに詳しくなくて、その知識にもまちがいがある。それでいながら五木寛之大江健三郎は、他のジャズ評論家たちよりも、ジャズの本質に迫っていた、という著者の指摘はおもしろい。
 日本映画の大スターである石原裕次郎は、黒澤明三船敏郎とちがって、欧米ではほとんど知られていない。裕次郎がジャズドラマーを演じた『嵐を呼ぶ男』で大ヒットした「おいらはドラマー」という歌は、はたしてジャズだったのか、など、著者の指摘には、なるほど、と思うものが多い。
 日本独特の「ジャズ喫茶」に対する批判も、痛快である。
 ジャズ喫茶は、ライブ演奏ではなく、レコードを命としている。ジャズ喫茶には、一回こっきりのライブ演奏という認識から生じる興奮と緊張感がなく、聴衆とミュージシャンとのコミュニケーションもない。
 さらに「硬派」なジャズ喫茶では、会話一切禁止、リズムに合わせて体を動かすことさえ、店主や周りの客から白い目で見られる。ジャズの正しい聴き方というものが儀式化されて、体をじっとさせ、腕組みして、目をつぶり、首をたらす。音を立てずにじっと「勉強する」および「鑑賞する」。こうした「飼いならされた」者たちの、どこがジャズなのか。

 しかも、上述したような硬派の店であればあるほど、<自由>や<アナーキー>な雰囲気を醸し出しながら、実は個人の自由な表現を厳しく抑制する傾向が見られるのは、皮肉としかいいようがない。
 おまけに、このようなジャズ喫茶の店主も、常連客も、大概はクラシック音楽などのコンサート・ホールで見られるような気取ったふるまいをバカにしたがるのに、自分たちこそ、外部から見ると、ずいぶん気取っているように見える上に、<自由>や<アナーキー>や<破壊>や<革命>などという大義名分を吐きながら、コンサート・ホールの客たち以上に、統一化されたふるまいを無意識に自ら体現しており、しかも隣の客のふるまいまで監視し規制していることにも気がつかないではないか。
 いや、これは<アナーキー>というよりも<ファシズム>を思わせる風景ではないだろうか。少なくとも、個人ひとりひとりの自発的な表現と、周りの人間(バンドマンにせよ、聴衆にせよ)との活発なコミュニケーションを大事にしてきた<ジャズ>という音楽の核となる姿勢からは、程遠いという気がしてならない。
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戦後日本のジャズ文化―映画・文学・アングラ

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