通俗ということ

伊丹十三『ヨーロッパ退屈日記』より。

さてニコラ・バタイユの演出を見ていていつも思うのだけど、演出、とは結局想像力ですね。

例をあげれば判りやすいと思うのですが、わたくしは、半年ほど前、カンヌで、イヴ・シャンピという人の監督した『ゾルゲ』という映画を見たのです。その中で若い夫婦が初めて観客に紹介されるシーンがあります。

およそ「この二人は若い夫婦ですよ」といって作者が観客に示すやり方は一万とおりもあるでしょう。
ところがこの映画で作者がその一万とおりのなかからえらんだのはこんな方法です。

すなわち、若妻がエプロンを掛けて台所で働いています。そこへ外から帰って来た夫が現われ二人は接吻する、というのです。

これは一体どういうことでしょう。むろんこの責任の大半は脚本にあるわけですが、これ以上安易で、投げやりな想像があるでしょうか。
新潮文庫・31ページ・引用終わり)

まあ、これに限らず、伊丹氏のエッセイというものは、いろいろためになることが書かれてあるわけです。

映画や演劇というものを、こういう目で見ることのできる人が、どれだけいるだろうか。

通俗というのは、つまりは想像力の貧困をいうわけです。

伊丹映画の面白さというものは、実はこういう視点にあるわけで、といっても、そういう感性が、映画が撮られるごとに失われていくのが、残念でなりませんでした。

みずみずしい感性も、いつかは枯れる。