リンリ、リンリと鈴虫が鳴く

 永井均は倫理に反することを平然と書く。たとえば次のように。

 なぜ人を殺してはいけないか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳哲学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」――誰も公共の場で口にしないとはいえ、これがほんとうの答えである。だが、ある意味では、これは、誰もが知っている自明な真理にすぎないのではあるまいか。ニーチェはこの自明の心理をあえて語ったのであろうか。そうではない。彼は、それ以上のことを語ったのである。
 世の中が面白くなく、どうしても生きる悦びが得られなかった人が、あるとき人を殺すことによって、ただ一度だけ生の悦びを感じたとする。それはよいことだろうか。それはよいことだ、と考える人はまずいない。あたりまえだ。殺される方の身になってみろ、と誰もが考える。そんなことで殺されてしまってはかなわないではないか。
 だが、ほんとうに、最終的・究極的に、殺される方の身になってみるべきなのだろうか。自分のその悦びのほうに価値を認めるという可能性はありえないのか。このように問う人は、まずいない。だが、ニーチェはそれを問い、そして究極的には、肯定的な答えを出したのだと思う。だからニーチェは「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければ、やむをえない」と言ったのではない。彼は、「やむをえない」と言ったのではなく、究極的には「そうするべきだ」と言ったのである。そこに相互性の原理を介入させる必要はないし、究極的には、介入させてはならないのだ。そうニーチェは考えたのだと思う。
 これは、世の中で確固たる地位を持ち、そこで問題なく生きている多くの人々には決して――少なくとも公的には――受け入れることができない見解であるかもしれない。しかし、それでもこの見解には究極的な正しさがあるのではないだろうか。「正しい」という語のある特別の意味において、それは決定的に正しいのではあるまいか。少なくとも私にはそう感じられるのである。
永井均『これがニーチェだ』講談社現代新書・P28-29)

 こういうことを本気で信じているらしい人物が、人を殺すこともなく、交通違反をすることもなく、大学教授として「世の中で確固たる地位を持ち、そこで問題なく生きている」ところにこそ倫理の問題はある。