佐々木中『踊れわれわれの夜を、そして世界に朝を迎えよ』を読む。
もともとそういう素質があったのか、ますますアジテーターのようになっている。表題のインタビュー記事は、風営法によるクラブ営業の規制に対する反対意見を述べたものだが、その根拠として持ち出してくるものが原理的であるばかりに、規制する側の根拠としても使えてしまうという愚を犯している。
われわれが生きているということは、音を鳴らしているということなんです。つまり、ダンスを「ある音に合わせてある身振りをとる」と定義したら、われわれは常に踊っていることになってしまう。われわれは、われわれ自身の音に無意識のレベルで反応している。ケージのように言いましょう。だからダンスは死なない。生あるかぎり、ダンスは絶対に死なない。われわれは、もう踊っているのです。すでに、つねに、いつも。
実際にジョン・ケージやマース・カニングハムに影響を受けたジャドソン・ダンス・シアターという人たちがいた。彼らは座ったり歩いたり、そういうことはすべてダンスで、ダンスでないものなんてないというラディカリズムに突き進むわけですから。
(P21より引用)
ここまで言ってしまうのであれば、政府にどれだけ規制されようが平気ではないか。なにせ、ダンスは死なないのだから。クラブ営業が全面禁止されてもかまわないではないか。なにせ、ダンスは絶対に死なないのであるから。深夜営業のクラブなんか、つぶれてもいいではないか。なにせ、どこででも踊れるのであるから。「座ったり歩いたり」ということさえダンスだというのであれば、なぜわざわざ金を払って、深夜にビルの地下で、キチガイじみたクソやかましい音楽に合わせて、全身にピアスやイレズミをし、クスリをきめたヤクザみたいな連中と一緒に踊らなければならないのか。
さらに佐々木中は、ダンスという表現の自由の規制は憲法違反だとし、政府に対し「法を守れ」と説く。しかし、摘発されたクラブは無許可営業をしていたのである。おまえらこそ、法を守れ、である。