レディ・イン・ザ・ウォーター

M・ナイト・シャマラン監督というのは、作品を撮るたびに、信用を失っているような気が。
新作『レディ・イン・ザ・ウォーター

『文学界』2006年11月号・阿部和重×中原昌也の対談で、絶賛されておりましたのでとりあえず。

まあいつものシャマラン節というか、もうその手は食わねえぜ、と思いつつ。
プールの中から妖精が出てきまして、その妖精の名が、”ストーリー”。彼女が再び妖精の国に戻るためには、「作家」の助けが必要。それでアパートの管理人が、住人の中から「作家」を捜そうとするのであるが。

プール=スクリーン
アパート=映画館
住人=観客

つまり、表向きのファンタジーな物語に、二重の意味を含ませて、「映画」そのものの構造を象徴させているのですね。

アパートの住人には、映画評論家がいて、彼は間違った解釈をして住民を混乱させ、あげくに犬の化け物に食われて、死にます。

これはようするに、俺様の「ストーリー」を信じろ。それ以外の勝手な解釈は許さない、評論家なんか、犬に食われて死ね、というメッセージでしょうな。

シャマラン監督の映画というのは、このところ、設定が小さいわりに、その世界観が大きい。アンブレイカブル(救世主)、サイン(宇宙人の侵略)。

で、低予算で撮っているのかと思ったら、この映画、ワーナーが60億出したんだって? そんな金、どこに使ったのか。

アンブレイカブル』をミステリと思ったら、失望するし、
『サイン』をSFと思って見たら、失望するし、
『ヴィレッジ』をホラーと思って見たら、失望するし、
『レディ・イン〜』をファンタジーと思ったら、失望します。
まあ、そこがシャマラン監督ですけど。

阿部・中原は、この映画で「泣いた」というんだけど、失笑することはあっても、泣くほどのものではない。

ポストモダニズムというのは、つまらない映画をわざと絶賛したりするから、困りものです。