あさましい世の中

なんともこれは、あさましい世の中である。

一群の若い男たちと若い女たちとが、まるで盛りのついた牡犬および牝犬の群れのように、行き当たりばったりつるんでふざける、という類の小説を、ある男が書く。

すると老若大ぜいが、「新しいモラル」だの「新人の季節」だのと誉め称して騒ぎまわる。

この畜生同然の交接風景を手放し肯定で描いた御本人が、また「大人への不信」云云などと甘ったれ切ったことを、恥ずかしがりもせずにがなり立てる。
(略)
右畜生小説の作者は、当年満二十三歳の既婚者である。

その大の男がおのれを「非大人」に見立てつつ「大人への不信」などという言葉を吐き出すていたらくは、不潔も極まって、さもしいと言うもおろかな気が、私にする。
(引用終わり)

さて。
これは、今から50年も昔の文章。

書いたのは、大西巨人。初出誌『三田文学』1956年8月号(『大西巨人文選1』みすず書房・所収)

「畜生小説」と、こき下ろされているのは、おそらく、このときの芥川賞受賞作『太陽の季節』。

この「畜生小説」の作者はさらに、『完全な遊戯』という、不良少年どもが知的障害の少女を拉致監禁し、輪姦し、売春宿に売り飛ばし、あげく海に突き落として殺害。というような小説まで書いております。

それが今では、東京都知事ですからね。

青少年健全育成の名目で、コンビニのエロ本に、立ち読み防止のシールを貼らせる条例まで、作っております。

しかし、どうも、生ぬるい。

まずは、ご自身の「畜生小説」を発禁にしてはいかがか。

三島賞作家・中原昌也は、新刊に、『石原慎太郎を殺すために記す』というタイトルを付けようとしたが、出版社に拒否されたとか。

石原慎太郎のタイコモチであり、かつ中原昌也を高く評価する福田和也は、このことをどう思うか。

てなことを思いつつ。
大西巨人の『あさましい世の中』というエッセイは、次のように続くのであります。

一人の男は、一生のうち、未婚の青年時代においては、素人娘とも人妻とも未亡人とも淫売婦とも結婚に達し得ざる(でたらめな)肉体関係を持たないほうが立派である、

それを持つことが少ないほうが誇り得る生き方である、結婚後においては、めったに自分の妻以外の女と交合を行わないほうが輝かしい態度である、

この原則が、公然と主張せられ実行せられねばならぬ。

処女性の崇拝は封建的である、という訳で、未婚の女が、あちらこちらの男どもに彼女の門戸をむやにやたらに開放して「共同便所」になる、というような事態は、少しも民主的でも男女同権でもない、

既婚の女は、めったに間男を作らないほうが名誉である、

この原則も、公然と主張せられ実行せられねばならぬ。


「俗情との結託」を、善しとしない作家は、”正しい一夫一婦の確立”を訴える。
それをアナクロニズムだと哄笑できる人々は、果たしてどのような原理に立っているのであろうか。