トラウマなんてないよ

『嫌われる勇気』という本が売れているというので読んでみた。
 アドラー心理学では、トラウマを否定し、「目的論」の立場を取る。
 たとえば「自分は両親に虐待を受けたから、社会に適応できないのだ」と考えて、引きこもっている青年がいる。虐待を受けたという過去がトラウマになっていると考えるのがフロイト流の心理学だが、アドラーはそれを否定する。
 この青年にとっては「外に出ない」という目的が先にあり、そのために不安や恐怖を自分の過去の体験から作り出している、と解釈するのだ。
 赤面症で悩んでいる女性の場合は、こうだ。
 どうして彼女は赤面症になったのか。どうして赤面症は治らないのか。それは彼女自身が「赤面症という症状を必要としている」からである。彼女には片思いの男性がいる。もしも赤面症が治ったら、その彼に告白してお付き合いをしたいと思っている。しかし、赤面症が治ったところで、彼女が彼と付き合える保証はない。彼女にとって一番おそろしいのは、そのことである。ところが赤面症であるかぎり、彼女は「彼とお付き合いできないのは、この赤面症があるからだ」と考えることができる。
 それによって、告白の勇気を振り絞らずにすむし、たとえ振られても自分を納得させることができる。そして最終的には、「もしも赤面症が治ったらわたしだって……」と可能性の中に生きることができる。
 しかし赤面症が治ってしまって、それでも事態が何ひとつ変わらなかったら彼女はどうなるか。きっともう一度、赤面症に戻りたいと思うであろう。それはカウンセラーの手には負えない相談である。
 受験生が「合格すれば人生バラ色になる」と考える。会社員が「転職すればすべてうまくいく」と考える。しかし、それらの願いがかなったにもかかわらず、事態がなにひとつ変わらないことは大いにありえる。
 赤面症を治してほしいという相談者が現れたとき、カウンセラーはその症状を治してはいけない。そんなことはすれば、立ち直りはもっとむずかしくなる。アドラー心理学的な発想とは、そういうことである。(P28-P67)
 こうした考え方にも一理あると思う。
 いやそもそも、心理学じたいが何を読んでも一理あると思わせるたぐいのものである。その証拠に、少し前まではアダルトチルドレンが流行していたではないか。かつてアダルトチルドレンについて語っていた連中が、今はアドラーについて語っているのを見ると、いったいおまえの立場はどっちなんだと問いたくなる。
 女優の東ちづるはアダルトチルドレンであると告白し、自分のトラウマとなっている母親と一緒にカウンセリングを受けて、『“私”はなぜカウンセリングを受けたのか-「いい人、やめた!」母と娘の挑戦』という本まで出した。その東ちづるが、「トラウマなんてないよ」という立場の心理学があることを知ったら、また、おかしなことになりはしないか。
 とはいえ、トラウマを克服した東ちづるは「いい子でなくていい」「頑張らなくいい」「私はわたしでいい」と考えるようになったということで、これは奇しくもアドラー心理学が唱えていることと共通しており、けっきょくトラウマがあろうとなかろうと、結論は似たようなものであり、いかにも自己啓発である。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え