差別される理由

 糸井重里の推薦文がきもちわるいが、山岸俊夫の本を何冊か読んでみた。
 まずは、『「しがらみ」を科学する』
 第2章では、ロバート・K・マートン『社会理論と社会構造』に拠りながら、次のように述べている。

 アメリカの白人たちが持っている黒人に対する考え方は、偏見ではなくしっかりとした事実に基づいている。白人たちは、黒人は「労働者階級の裏切り者」なんだから、断固として自分たちの労働組合からしめ出してしまわなければならないと考えている。これは偏見ではない。黒人が実際に「労働者階級の裏切り者」だという事実ははっきりしている。
 1940年代から50年代にかけてのアメリカでは、黒人たちが南部の農業地帯から北部の工業地帯に職を求めて移住してきて、安い賃金で働いたり、ストライキ破りのために雇われるなどしていた。
 労働組合がちゃんとしている産業では、労働組合に加入していない人を雇ってはいけない決まりになっている。労働組合に加入させてもらえないと正規の仕事につくことができない。そうすると、組合に入れてもらえない黒人たちは正規の仕事には就けず、ストライキ破りのような仕事とか、賃金が安くて白人は働こうとしない仕事を探すしかできなくなってしまう。
 白人労働者が黒人は労働者の敵だと考えて、労働組合への黒人労働者の参加を拒否するせいで、黒人労働者はストライキ破りとか、低賃金の日雇いの仕事にしかつけなくなってしまう。そしてその結果、黒人たちは実際にストライキ破りに雇われたり、低い賃金で働くことになって、黒人は労働運動の敵だという白人労働者の思い込みが本当になってしまう。これが、マートンの言う予言の自己実現である。

 続いて、山岸俊夫『安心社会から信頼社会へ』を読んだ。レスター・サローによる統計的差別に拠りながら、男女差別の合理性を次のように説明している。(213-219頁)

 他の商品と同じく市場(労働市場)で売買される商品のひとつとして労働力を考える。もし労働力が市場で売買される商品であるとすれば、雇用における差別――たとえば有能な女性を採用せず、そのかわりに能力の劣った男性を採用する――とは、見てくれに惑わされて質の悪い商品を高い値段で購入するのと同じことになる。企業なそのような経営を続けていれば、すぐれた品質の部品を安く購入している企業との競争に敗れてしまう。
 労働力を商品として考えるかぎり、差別は経営者にとっておろかな行為となる。そして差別をする企業は、差別をしない企業との競争に敗れて市場から駆逐されるはずである。
 したがって、資本主義社会では、差別は存在しなくなるはず。
 ところが、実際はそうならない。なぜなら、労働力は普通の商品と同じではないから。
 人を雇うというのは、プログラミングの能力といった個々の技能を購入するのではなく、何年かの訓練を与えた後で役に立つ可能性のある、投資材料としての「人材」を確保すること。人材の場合、購入する時点ではその質がわからない。人材の質は何年かにわたって実地訓練をほどこして仕事をさせてみてからでなくてはわからない。
 そこで「統計的差別」が登場する。統計的にはいろいろな側面で大きな男女差が存在している。たとえば勤続年数には大きな男女差が存在している。人材の採用にあたって、統計的な情報を使ったほうが使わないよりは、人材採用にあたっての統計的なエラーが小さくてすむ。
 人材の採用は宝くじを購入するようなもの。どの人間が「当たり」でどの人間が「外れ」なのかは、採用してからでないとわからない。しかしもし、ある売り場で当たり券の確率が高くなるように仕組まれているとしたら、当たり券の確率が高い売り場でくじを購しようとする。それと同じように、なんらかの統計的な情報に基づいて、「当たり人間」の確率が高いカテゴリーに属する人間を優先的に採用することは、合理的な行為である。
 幹部候補社員の採用にあたってはある程度の長期的勤続が見込まれる人間を採用する必要がある。となると、男女を統計的に比較すれば、男性を採用する方が賢い選択になる。

 このことは、差別行動を適応的な行動としている社会的環境そのものが、その環境に対する人々の適応行動によって生み出され維持されていることを意味します。筆者はこのような、人々の適応行動と、その行動と適応的にしている社会的環境との間の相互強化関係の存在を、「文化」という言葉を使って表現してもかまわないと考えています。

 もちろん、この意味での差別の文化が存在する状況では、人々は偏見をもっているでしょう。たとえば「女性はやる気がない」といったたぐいの偏見です。しかしこのたぐいの偏見は、多くの場合、事実にもとづいています。多くの中間管理職の人たちが「女性はやる気がない」と思っているとしたら、それは彼らの日常接する女性たちが男性たちに比べ実際にやる気がないからだといえるでしょう。しかし彼らの接する女性のやる気のなさは、彼女たちが差別されていて、やる気を示すことで得られる利益が存在していない、あるいは逆に、やる気を示さないことで失うコストが存在していないからです。
 つまり筆者がここで言いたいのは、差別の文化は個々の人間の頭の中にあるのではなく、差別を生み出す行動を適応的な行動としている社会のしくみの中にある、そしてそのしくみを生み出し維持しているのは、差別社会への人々の適応行動なのだということです。

 差別をなくすためには社会環境の性質そのものを変えなくてはならない。つまり、非差別的な行動が適応的になるような社会環境を作れば、差別は自ずから消滅するはずです。(223-224頁)

 ああ、こういう結論か。
 しかしながら、「非差別的な行動が適応的になるような社会環境」とはどういうものか、具体的な案が何も示されていない。それが糸井重里や「ほぼ日」のようなものだとしたら、なんといやなものか。差別が消滅した社会とは、なにやらひどく清潔な、それこそ『すばらしい新世界』のようなディストピアを思わせる。
 社会の変化が、人々の意識の変化をもたらすこともあるだろうが、差別意識はそう簡単には消滅しない。人類の長い歴史がそれを証明している。差別のなかった時代があるか。差別のない社会があるか。
 差別とは内なる意識である。差別が社会的に不利に働くとなれば、差別主義者は、いわば偽善者としてふるまおうとする。差別意識を内に秘めて、社会に適応するだろう。そんな偽善者ばかりの社会では、表向きは差別が消滅したように見えるだろうが、べつのところで新たな差別意識が噴出するにちがいない。

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

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