上野千鶴子はものすごい

 荒俣宏の『プロレタリア文学はものすごい』(平凡社新書)は、すでに絶滅したプロレタリア文学をSFやホラー、エロ小説として読み直していて、じつにおもしろい。
 たとえば平林たい子の小説には、セックス、出産、生理、排便、はては痔の話まで、エログロと呼べるほどの描写があふれている。平林たい子はこうした「女を捨てた描写」によって、プロレタリア文学界を生き抜いた。しかし貧しき民衆の最底辺の生活を赤裸々に描いた平林であるが、自身は幼少の頃から英才教育を受け、トルストイドストエフスキーを読破するインテリ女性であった。
 プロレタリア運動において、いち早く情況に目覚めて女性解放のリーダーとなったのは、女教師たちだったという。そのため昭和初期、プロレタリア運動の高揚期に登場した女流作家の多くは、女教師を主人公とした物語を書き綴った。階級意識に目覚めた女教師が、旧体制に縛られた学校の中で、校長を批判し、同僚と戦い、ストライキをやり、生徒をオルグし、自由や平等という崇高な理念を掲げ、革命闘争へと導いていく。(前掲書・第2部)
 そうした社会問題に目覚めたインテリ女性の活躍ぶりを読みながら、私はフェミニズムについて考えていた。
 上野千鶴子の『女遊び』(学陽書房)という本は、巻頭におかれた「おまんこがいっぱい」というエッセイがたいへん評判になった。
「良家の子女」として育った上野千鶴子は、大人になるまで「おまんこ」という言葉を知らなかった。しかしその言葉を覚えてから、おまんこ、と口にしてみると周囲の狼狽ぶりや眉のひそめようがおもしろくて、わざと人前でその言葉を口にするようになる。そこから女性性器をめぐる構造主義的な知見を披露したあと、エッセイは次のように締めくくられる。

おまんこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、わたしはおまんこと言いつづけるだろうし、女のワキ毛に衝撃力がなくなるまで、黒木香さんは腕をたかだかとあげつづけるだろう。それまでわたしたちは、たくさんのおまんこを見つめ、描き、語りつづけなければならない。そしてたくさんのおまんこをとおして、”女性自身(わたしじしん)”が見えてくることだろう。
(『女遊び』20ページより引用)

 こうした主張について、斎藤美奈子は『文壇アイドル論』(岩波書店)のなかで、「ダサい」、「バカじゃないの?」、「世間知らずのレッテルを貼ってやりたくなる」、「抜群のセンスの悪さ」などと批判している。(P130〜133)
 しかし私が思うに、人前でおまんこと言う行為はセクハラである。
 セクハラについては公共機関等で各種ガイドラインが作成されているが、たいてい相手を不快にさせる「性的な言動」を禁じており、おまんこと言うことはこれに該当する。私が知る限り、上野のこうした発言をセクハラとして問題視した議論はなく、そのことのほうが驚きである。
 上野は女性性器の名称やその存在が社会的に隠蔽されていることを問題視し、それを顕在化させることが女性解放になるのだと考えているようである。しかしこうした考えは、性的な言動を禁じようとするセクハラの規定と真っ向から対立するものである。セクハラというものがフェミニズムの成果として認知されたものであることを考えると、上野の主張はそうしたフェミニズムとも矛盾するものである。
 上野が評価するフェミニスト・アートの絵画であろうと、その女性性器を描いた作品を職場の壁に飾れば立派なセクハラである。谷川俊太郎に「なんでもおまんこ」という詩があるが、いくらこれが文芸作品だとしても男性教師が授業で女子生徒に朗読させればセクハラである。教材に使うことすらできない。
 であるのにもかかわらず、なぜ上野の言動はセクハラだと批判されないのか。
 男がおまんこと言えばセクハラだと糾弾し、しかし上野が同じことをやっても問題視しないというのであれば、これはダブルスタンダードである。強者である男性による性的な言動はセクハラだが、弱者である女性の言動はセクハラにならないとでも考えているのだろうか。
 では次の例はどうか。上野千鶴子は自分がおまんこと口にするのは、コドモがチンチンと言いたがるのと同じだと言い、次のように書く。

 コドモは母親以外にも呪文の威力がためしたくて、出会うオトナにのべつまくなしにチンチン! とやっては、母親のヒンシュクを買っていた。ところがこの呪文の威力がきかないオトナがたった一人だけいた。それがわたしである。わたしはこのコドモと二人で、チンチン! チンチン!! とかけあいで叫んでは笑いころげ、コドモの母親から大いにヒンシュクを買った。わたしはこのコドモのオバである。
 このコドモが十二歳になった頃、チンポのケが生えてきた、と言う。この年齢までに、コドモはさすがに、チンポのケ、と叫んで大はしゃぎするほどのコドモらしさを失っていた。わたしがチンポのケ! と叫ぶと、コドモはオバに呼応してくれなくなって、それどころか恥ずかしがって顔をそむけた。オバはますますチンポのケ、と言いつのり、チンポのケを一本くれたらお年玉をはずむのになあ、とコドモをからかうが、コドモはもう一緒にはしゃいでくれない。コドモは性の情報をどこからか身につけてオトナの世界に行ってしまったのだろうか、とオバは遊び相手を失ったさびしさで、もう一度だけ、チンポのケ、とつぶやいてみる。
(『女遊び』9ページから引用)

 これは明白にセクハラであるばかりか、児童虐待である。
 この文章を、オバさんから性的にからかわれる男子児童の立場になって読んでみるがいい。あるいはこれをオジさんと女子児童の関係に置き換えてみれば、その残酷さがわかるはずだ。
 上野の考えでは、子供を性的にからかうことが「遊び」なのか。ここには子供を性的に虐待していることへの自覚も反省もない。こんなひどい行為を平然と書ける上野にもあきれるが、こうした文章をまるで武勇伝のごとくもてはやした連中にも虫唾が走る。
 なぜ上野の言動はセクハラだと批判されないのかという問いに戻ろう。
 それは上野が「女」だからである。しかし上野千鶴子はほんとうに「女」なのだろうか。社会的に差別された、か弱き「女」なのだろうか。良家の子女であり、京都大大学院卒であり、東京大学教授という経歴のどこに差別される理由があるのか。
 はじめにプロレタリア運動のリーダーとなった女教師について述べた。貧富の差という社会問題に目覚めた彼女らは、同時に自分の恵まれた環境に罪悪感を抱いた。それが階級闘争であれば、「良家の子女」つまりはブルジョアであることは、貧しき民衆を差別する側の人間であることを意味するからだ。
 女教師が階級闘争のリーダーとなるということは、つねに自己批判をともなう。インテリの女教師が、小卒の工員や貧しい百姓の娘を相手に「人間は平等なのよ」と説くことの傲慢さ。
 しかし女教師たちは真剣に悩み苦しんでいた。ある者は学校を辞めて非合法な革命闘争に身を投じ、ある者は貧しき民衆と共に生きることを選び、力なき者は『二十四の瞳』の女教師のように「先生、何もしてあげられないけど一緒に泣いてあげる」 と言うしかなかった。
 しかしフェミニズムはそうではない。上野千鶴子は「女」という属性のみによって、差別される側に立っている。
 はっきりさせておこう。ブルジョアのインテリは強者であり、差別する側の人間である。その豊かな生活は貧しき民衆からの搾取によって成り立ち、その豊かな生活があるからこそインテリになれたのである。人間の平等を理念とするのであれば、まず自己批判せよ。だが、そうはならなかった。「女」でありさえすれば、どれほどのブルジョアでもインテリでも差別される側に立てるのだ。なにしろ大学教授も百姓の女房も、すべての女性は差別されているというのだから。
 インテリ女性たちがなだれをうってフェミニズムに賛同した理由もこれで説明できる。プロレタリア運動の女教師らが感じていたやましさを、フェミニズムでは考慮する必要がない。彼女らは堂々と差別される側に立ち、安心して男(差別者)を攻撃することができる。男であるなら男子児童さえ攻撃するのだ。この点では父親が大学教授という「良家の子女」の斎藤美奈子も同じである。フェミニストがなぜあれほど攻撃的なのか、それは「弱者」「被差別者」のふりをした傲慢な差別者だからである。
 AV女優がワキ毛を見せてギャラを得るのと、大学教授がエッセイでおまんこと書いて原稿料を得るのは同じではない。
 おまんこと叫べば女性が解放されると本気で信じているのなら、叫ぶだけではなくアダルトビデオに出演して性器をさらせばいい。そうすれば少しはそうした差別されている女性の気持ちもわかろう。自分には地位も名誉も財産もありながら、無知で貧しく虐げられた女性と同じ側に立とうとするのは、卑怯である。
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女遊び

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