偽善者だもの

永井均『倫理とはなにか』(哲学教科書シリーズ・産業図書)

倫理学の教科書という体裁なんだけど、そこは永井均
反倫理の思考を徹底しておこない、教条的な倫理学の教えを粉砕する。

わかりやすく言えば、「自分さえよければいい」という反倫理的な考えでどこが悪いか。

そもそも従来の倫理学というものは、倫理的に生きることが絶対に正しい、という価値観を前提にしている。これでは、神の存在を前提にした神学と同じである。神学において、神の存在を否定することは許されない。同じく、倫理学において、「倫理」を否定することは許されない。

だが、批判されないものは、学問ではない。
だから批判する。

とはいえ、大学の教養課程で習う程度の「倫理学」の要点は押さえられているので、「倫理」について考え語りたいなら、せめてこの本くらいは読んでおいてほしい。
ただ、大学のまじめなレポートでこの本のような議論をふっかけると、赤点をもらうかもしれない。

以下は、おれの感想。
「道徳的(倫理的)に生きる人は幸いである」という理由で、道徳的に生きようとするなら、それは道徳的ではない。
なぜなら、真に道徳的であるとは、「幸い」か否かは関係ないから。

幸福になりたいがために、あるいは周囲から善人だと思われたいがために、道徳的に生きる者のことを、偽善者という。
だが「真の善人」がいたとしても、それは偽善者と、外見上は区別がつかない。なぜなら、ずるがしこい偽善者は、周囲をあざむくために、「真の善人」と全く同じようにふるまうからだ。

では、偽善者とは、悪い人なのか。
「悪徳を行うことが快楽である」という人もまた、真に悪徳ではない。この場合、快楽が第一の目的となり、悪徳はその手段にすぎない。
むしろ善人であろうとすることは、本質的に偽善であることを、避けられないのだ。

永井均は、反倫理の寓話として、次の童話をあげる。
宮沢賢治『毒もみのすきな署長さん』
この署長さんは、いわば快楽殺人者であろう。

宮沢賢治というのも、なんともいやらしい文学者だが、彼が「聖人」ではなく、偽善者であったことは、吉田司宮澤賢治殺人事件』(文春文庫)を読めば、わかる。

ドストエフスキーの小説も、倫理の問題として読める。

では、真に道徳的であるとは、どういうことか。
それを考えることは、「内面の法廷劇」になると、永井均は指摘する。問いと答えが堂々巡りになり、検察も弁護士も裁判官も、すべて自分ひとりで兼任するような泥沼の法廷劇。
プラトンからの哲学史は、およそこういうものであった。
そこから脱出するすべは?

「あとがきにかえて」でこう書いている。

哲学の伝統によって確立してる問いは無視して、つまり哲学は無視して、自分が疑問に思っていることを考え抜くことだ。
それに尽きるよ。哲学はそのために利用すべきものだ。そして逆説的だけど、それが哲学なんだ。
<略>
そもそも、哲学研究者にでもなって哲学界で認められようなんて思うのでもない限り、哲学なんかどうでもいいにきまってるじゃないか。
哲学である必要なんかないんだよ。
もちろん、哲学とされていたものの伝統が好きなやつは、それをおおいに研究すべきだ。そんなことは人の好き好きだから。


永井氏の主張は、これに尽きるといっていい。最初に読むなら、『<子ども>のための哲学』がいい。

永井均の立場は、「独我論」と呼ばれるもの。全世界は、自分の心の中にあって、その外なんか存在しない、という主張。

胡蝶の夢』、『死霊』、『マトリックス』、『涼宮ハルヒの憂鬱』。世界の歴史は3年前に作られて、それも全部、ハルヒが見ている夢。いや、この世界は、私が見ている夢。
そんな世界観。

独我論」を認めるなら、個人と社会の対立は消える。私がよいと思ってやったことが、社会では悪になることがある。でも、それは本当は、よいことなんだ。だって「社会」は、私の中にあるのだから。(独我論

「私」とは何か。
たとえば、タイムマシンに乗って5分前に戻ったとする。そこには、5分前の自分がいるはずだ。では、タイムマシンでやってきた自分と、5分前の自分とでは、どちらが本当の「私」なのか。
それは、タイムマシンでやってきた自分の方である。今この時の自分の方に、「私」があるのだ。
たとえ5分前の自分でも、それは「私」ではない。
自分と同じ顔と体、同じ精神、同じ能力、同じ経歴…、の人物がいても、それは「私」ではない。
では、私が私だと思う、その「私」とは何か?

永井均はそれをヴィトゲンシュタインの言葉を借りて、「語りえぬもの」だという。

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

だが、語りえぬものを、どうやって考えることができるのか。