ラサールなんとか

 ラ・サールといえば進学校で知られるが、わが国におけるラ・サール会による学校運営の本格的な始まりは、戦後、仙台で設立された孤児院からである。その孤児院で育った井上ひさしは、カナダ人修道士たちの献身的な態度を、次のように記している。

 わたしが信じたのは、遥かな東方の異郷へやって来て、孤児たちの夕餉をすこしでも豊かにしようと、荒地を耕し人糞を撒き、手を汚し爪の先に土を埃をこびりつかせ、野菜を作る外国の師父たちであり、母国の修道会本部から修道服を新調するようにと送られてくる羅紗の布地を、孤児たちのための学生服に流用し、依然として自分たちは、手垢と脂汗と摩擦でてかてかに光り、継ぎの当たった修道服で通した修道士たちだった。

 しかしやがて、そんな誠実な修道士ばかりではないことを知る。

 三年後、わたしは大学に入るために、これらの師父たちに別れを告げ、大都会へ旅立ったが、大都会の聖職者たちはわたしを微かに失望させた。聖職者たちは高級な学問でポケットをふくらませ、とっかえひっかえそれらを掴み出し、魔術師よろしく、あの説とこの説をつなぎ合わせたり、口論と乙論をかけ合せたりして、天主の存在を証明する公理を立ちどころに十も二十もひねりだしてくれたが、その手は気味の悪いほど白く清潔で、それがわたしをすこしずつ白けさせ、そのうちにわたしはキリスト教団の脱走兵になってしまっていた。
(『井上ひさしコレクション・人間の巻』P296より引用)

 この気味の悪さは、ラサール石井に通じるものがある。