西岡文彦『ピカソは本当に偉いのか?』を読む。誰かさんのようにもっと論争的で挑発的な書き方をした方が本は売れるだろうに、そうしないでまっとうな根拠を提示していくところに著者の誠実さを感じる。それは、あとがきにある次のような芸術観に根ざすものだ。
私は、芸術という「創る」営みの出自が「働く」ことにある以上、それに与えられる評価というものが、人々が額に汗して働くことに不当に優越するものであってはならないと思っています。まして、その報酬が、日々を誠実勤勉に生きる人々の勤労意欲を損なうまでに高騰するのであれば、その社会は明らかに病んでいると思っています。(引用P190)
それから第五章の章題である「現代芸術はなぜ暴力と非常識を賛美するのか」という問いも重要であって、ようするにニーチェの超人思想と、フランス革命以降のブルジョア的常識への破壊衝動から生れたロマン主義が根底にある価値観であって、こういうものが現在まで延々と続いているのにはうんざりさせられる。「暴力と非常識を賛美する」映画評論家とかね。
村上隆の『芸術起業論』というのにたしか、ゴッホやピカソだって何百年もすれば紙くずになるかもしれないよ、ということが書いてあって、おれはその部分はわりと共感したのだが、というのも市場経済ができて以降というのは芸術といえども商品となるわけだ。高騰もすれば暴落もする。天才的な絵描きがいたとしても、そいつ一人では偉くなれない。ピカソを偉いとするなら、ピカソの絵に価値を見出した画商も、コレクターも、オークション会社も、評論家も、キュレーターも、マスコミも、みんな偉いわけだ。こういう「商売人」がいたからこそピカソの絵は高騰し偉くなれたわけだ。
ピカソの「アヴィニョンの娘たち」にはアフリカ先住民の仮面や人形の影響があるのだが、かといってアフリカ先住民が芸術家として偉いとされることはない。アフリカ人が作った仮面に、ピカソの絵のような何億円という値がつくこともない。ここが市場経済の残酷なところである。キュビズムなんてものは、ダダやシュルレアリスムを経過した現在から見れば、過激でもなんでもないのだが、しかし古典というのは「最初にやった」ということで価値が生じるのである。
そういうわけで、ピカソは偉くないと思っているなら、そう言っていいのである。人の世というのは不思議なもので、「ピカソは本当に偉いのか?」と問われることで、むしろピカソはどんどん偉くなっていくのだ。ジャン・ボードリヤールが『芸術の陰謀-消費社会と現代アート』のなかで、次のように書いていることはもっと知られてよい。
「現代アートは、自分は無価値・無内容だ!と叫ぶのだが、実はほんとうに無価値・無内容なのだ」
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