ダンスにとって意味とは何か

 芸術の歴史というのは、どれも似たような変遷をたどるものだ。あるスタイルが確立されると、それを批判する別のスタイルが現れる。そしてそれもまた批判され、新たなスタイルが出現する。構築と解体、意味と無意味、具体と抽象、たいていはそんな対立である。
 乗越たかお『ダンス・バイブル-コンテンポラリー・ダンス誕生の秘密を探る』(河出書房新社)を読む。
 モダンダンスの幕開け。アメリカにおけるボードヴィルなどのショウダンスは、セクシーさや筋肉美を見世物とする新しいダンスを生む。これがヨーロッパに渡り、クラシックバレエへのアンチテーゼとなる。
 イザドラ・ダンカンは、バレエを「トゥーシューズやチュチュは窮屈だし、号令に合わせるレッスンは刑務所の囚人みたい」と批判し、みずからは裸足でギリシャ風のゆったりとした衣装をまとい、しかも即興で踊った。これがヨーロッパ・バレエに衝撃を与える。
 それを受け継いだマーサ・グレアムは、しかし即興ではなく、そのテクニックを「グレアム・メソッド」によって体系化する。これによりダンスは「人間の内面を表現できる芸術的なもの」になる。
 しかし、弟子のマース・カニンガムは、そのスタイルを全否定する。ダンスにはドラマも、意味もいらない。ダンスは動きだけで語るべきだ、との考えから無意味で抽象的なダンスを考案する。*1
 では、ダンスから意味を剥ぎ取ったとされるマース・カニンガムのダンスとは、具体的にどんなものだったのか。
 音楽や衣装やストーリーに依存せず、「ダンスはそれ自体でも芸術として成り立ちうること」を証明するには、一体どういう方法を取ればよいか。
 衣装も音楽も振り付けも捨て去る。ということは、「全裸で無音で即興で踊れ」ばいいのか。そうではない。全裸だと逆にその人の個性を丸出しにしてしまう。なので、ダンサーは身体的特徴を均一化するレオタードを着用、ノーメイクに無表情とする。
 さらに、音楽と振り付けをまったく別進行で作り、当日、ぶっつけで合わせる。ダンサーは初めて聴く音楽の中、無関係に決められた振りを淡々と踊ることになる。この時、たしかに振り付けは音楽に依存していない。
 ダンスは厳密に振り付け通りに踊られることが重要で、即興的にノリで踊ることは許されない。それは音楽の助けを借りることになるから。
 しかし、これだけやってもまだ不十分である、とカニンガムは考えた。人はまだそのダンスから意味やストーリーを想像し、考える。これでは、いけない。そこでカニンガムは振り付けを解体する。それが「チャンス・オペレーション(偶然性の導入)」という方法である。(ここまで同書・P103-107をまとめ)  

 まず振り付けと音楽を、いくつかのパートに分けます。60分の作品ならば10分間ずつ6つのパート、という具合ですね。そして踊る順番と演奏する順番は、当日サイコロを振って決めるのです。たとえば、昨日は「361542」の順だったけど、今日は「152634」かもしれない。
 振り付けの流れに観客がなんらかの意味を読み取ったとしても、それはたまたまその日の順番だっただけで、明日はまた違う。つまり観客は、動きから振付家の意図を読み取ることを封じられてしまったわけです。
(同書・P106)

 ダンスから意味を剥ぎ取り、芸術として自立するためには、ここまでの手順を踏まなければならない、とカニンガムは考えた。そのカニンガムであるが、早い時期からこうしたことを考え、実践していたという。一人でサイコロを振り、たとえば偶数と奇数で「動かすのは右腕か左腕か」を決める。また振って、「腕を上に動かすか下に動かすか」を決める。そんな方法で、数分の振り付けを決めるのに数時間かけていたとか。
 芸術とは、なんときびしい道であろうか。
 もうわかったから、普通に踊れよ!
 でもこういうことを知ったあとで見るとちょっと、おもしろい。


*1:さらに、こうした西洋の舞踊の文脈とはまったく異なる発想をするのが日本の暗黒舞踏である。世界中、どんなダンスでもまず「正しい立ち方」から入るのだが、舞踏の場合、「立てない」というところから始まる。土方巽は「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」という。それまで立つことが基準(ゼロ)だと思っていた身体の位相を、いきなりマイナスにまで引き下げてしまった(P131)