智に働けば角が立つ

内田樹の『知に働けば蔵が建つ』(文芸春秋)を読んでみました。

内田氏の著作の多くは、ブログに発表した文章を集めたものらしいですが、ブログで読むならまだしも一冊の本として読むと、論旨の矛盾が気になります。

「はじめに」で、
他者が絶対的に「わからないもの」であるとしたら、まさにそうであるがゆえに、もしかしたら理解可能かもしれない、私はそういう考えをすることにしている。(大意)
と書いておきながら、別の章では、

嫌いな人とは付き合わない、というのが私から学生諸君へのアドバイスである。(単行本P244〜)
<中略>
だから、「嫌いな人」とは付き合ってはいけない。(P246)

と、書くわけで。
内田氏はいったい他者を理解したいのか、したくないのか。

ところが、「おわりに」では、そのための弁明も書かれておりまして、

学者である以上、できる限り、首尾一貫したものを書きたいと思っているのであるが、私は自分がいったい何を言いたいのかわからず、「私は何を言いたいのか」を知るために書き始めるということが多いので、途中でぜんぜん関係ない話になってしまうことは原理的に避けがたいのである。
<中略>
だから、当然にも本書の中では「言っていることのつじつまが合っていない」ということが起こる。
こちらの文章で主張していることと、あちらの文章で主張していることが、ぜんぜん違うじゃないかということが散見されると思う。けれども、それらの考想は私の中に時間差を置いて、いずれもたしかに一度は存在したものである。
そうである以上、「ぜんぜん違う」表層の下には、たぶん同一の「思考の母型」のようなものが伏流しているはずであり、それが何であるかを私自身もまだちゃんとことばにできていないということにすぎない(いばって言うほどのことではありませんが)

著者のこうした学者らしくもないユーモラスで軽薄を装った文体が、人気の秘密かと思いますが、しかし矛盾したことを書いて平然としていられる書き手を、はたして読者は信頼できるでしょうか。

それよりは、たとえ独善で偏向していようと、筋の通った書き手の方が、信頼できます。

内田氏の文章からは、どうにも真剣さが感じられないのですが、ブログでは読者からの反論は一切無視する方針のようですし、功成り名遂げ、蔵でも建ててしまうと、自分の主張ができれば満足で、議論などという面倒なことは、やりたくないのでしょう。

内田氏の「思考の母型」を探ると、学生運動経験者でありながら、その後、社会的成功を収めた人にありがちなプラグマティズムということになりましょうか。

私は根っからビジネスマインデッドな人間なので、どうしても「費用対効果」ということを考える。(P169)

という立場で社会問題を考察されていますが、はたして、著者の考えるような「安上がりなやり方」を選ぶことは、本当に、社会にとって有益な結果をもたらすのだろうか。
いや、この著者のことであるから、別の場所では、また別のことを主張するのでしょう。