マンガ家たちの好きな戦争

NHK「戦後史証言プロジェクト 手塚治虫」を見る。手塚は徴兵から逃れるために医学部に進んだ。(「ジキル博士とマンガ氏」より)。
 自分でそう公表していたということは、やましさをそんなに感じてないのかもしれない。出征して片腕を失った水木しげるの描く戦争マンガを、手塚はどう読んでいただろうか。
 戦争反対と唱えていれば誰からも批判されないし、戦争をモチーフにすればドラマチックな話が描ける。本当は戦争が好きだったんじゃないのか。
 手塚は、単純な勧善懲悪は描きたくないということを言っていたが、子供にペシミズムを抱かさせるようなマンガが、本当に子供のためになるのかどうかは情操教育の観点からも疑問である。
 手塚の原作によるアニメ映画「西遊記」では、ラストでヒロインが死んだ方がドラマチックになるという手塚と、東映が衝突した。

物語のラストを孫悟空の恋人の死、という悲劇的なものにしたいと彼は考えていました。これは「大切なものの死を乗り越えて、人は次なる成長をみつめなければならない」という手塚漫画が最後まで内包していたテーマをアニメーションでも表現しようとしていたことの現れでしょう。手塚治虫はこういうエンディングによって、子供たちに「生」と「死」をともに大切に考えられる人間になってほしいと願ったのかもしれません。しかし制作した東映動画の考えていたのは、あくまでも「子供たちを楽しませるため」の「ハッピーエンド」でした。
http://tezukaosamu.net/jp/anime/2.html

 これを宮崎駿は次のように批判した。こちらの言い分のほうが正しいが、しかし宮崎駿のアニメにも似たところがある。

 それより以前に、「ある街角の物語」(62.11)という、虫プロが最初に総力を挙げてつくったというアニメーションで、バレリーナとヴァイオリニストか何かの男女二人のポスターが、空襲の中で軍靴に踏みにじられ散りぢりになりながら蛾のように火の中でくるくると舞っていくという映像があって、それをみたときにぼくは背筋が寒くなって非常に嫌な感じを覚えました。
 意識的に終末の美を描いて、それで感動させようという手塚治虫の”神の手”を感じました。−それは、「しずく」や「人魚」へと一連につながるものです。
 これは先輩から聞いた話ですが、「西遊記」の製作に手塚さんが参加していたときに、挿入するエピソードとして、孫悟空の恋人の猿が帰ってみると死んでいた、という話を主張したという。けれどなぜその猿が死ななくてはならないかという理由は、ないんです。ひと言「そのほうが感動するからだ」と手塚さんが言ったことを伝聞で知ったときに、もうこれで手塚治虫にはお別れができると、はっきり思いました。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20071013/atom01
宮崎駿手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と訣別した』)

 宮崎駿が「安っぽいペシミズム」と呼んだ短編アニメを何本か見てみたが、思ったほど悪くない。手塚のペシミズムとは「神の手」というより、動物実験をする医者の手だ。マウスの立場から見れば医学生ヒトラーであろう。