上野千鶴子にスピード違反を学ぶ

 上野千鶴子のブログを読んでみたのだが、あいかわらずの男性差別者である。
 たとえば、「何が裁かれたのか?木嶋佳苗裁判」という記事では、被害男性を「かんたん生きもの」(ママ)と愚弄し、「獲物にしてトーゼン」と嘲笑している。あきれた神経である。
http://wan.or.jp/ueno/?p=1605
 同ブログから、さらに引用する。

ところで「連続殺人」が彼女の行為かどうかは、実のところ確定していません。本人の自白なく、状況証拠のみで、ひとりの人間を死刑というとりかえしのつかない極刑に処してよいのでしょうか。
同じ時期に小沢裁判がありました。こちらは無罪となりました。本人が罪を否認し(事実を知っていたが違法行為の認識がなかった?)、状況証拠しかないところでは、かぎりなく心証はクロでも、裁判官は「推定無罪」を言い渡しました。小沢を好きなひともキライなひともいて、思うところはさまざまでしょうが、「疑わしきは罰せず」の推定無罪は、日本が法治国家であることの証でしょう。小沢が無罪なら、木嶋も無罪だ…わたしはそう思います。

 法治国家は万能ではない。「疑わしきは罰せず」というのは、たとえ犯罪者を捕らえても証拠がなければ罰することができない、ということでもあるのだ。
 木嶋佳苗を無罪だと言うのであれば、「北九州・連続監禁殺人事件」の犯人をも無罪としなければならない。なぜなら、この事件においても、「本人の自白なく、状況証拠のみで」、死刑が言い渡されているからである。はたしてこの凶悪犯を、無罪放免としてよいか。
 犯罪者は裁かれるべきである。しかし狡猾な犯罪者は、裁きを逃れようとする。法治国家においては、証拠がなければ無罪である。
「北九州・連続監禁殺人事件」とは、7人の命が奪われた凶悪事件である。犯人は、その裁きを逃れるために何をしたか。自分では殺人も死体遺棄も実行せず、すべてを他の被害者たちにやらせた。遺体を完全に消滅させ、水道管や浴室のタイルまで交換して殺害の証拠を隠滅した。こうした事件においても、「疑わしきは罰せず」は正しいか。
 裁判で無罪になろうが、本人がじつは罪を犯しているとなれば、犯罪者である。法に触れなければ、何をやってもいいのか、ということである。
 上野千鶴子は東大を退官後 、立命館大学の特別招聘教授というものになっている。これは天下りではないのか。
 さらに、ツイッターでの発言が、次のようなニュースになった。

東京大学名誉教授の上野千鶴子が6月15日(2012年)のツイッターで、常習的にスピード違反を行っているとも読める発言をして話題を集めている。
別のユーザーがツイートしていた、高速道路の制限速度を120キロと勘違いして警察に捕まったという話に反応したもので、上野は「おやまあ、ご愁傷さま。中央高速は制限80キロ。平均120で走っています。ドイツで無制限のドライブを味わったのでつい。最近は覆面パトを見分けるのがうまくなりました。」とツイートしている。
(引用元) http://www.j-cast.com/tv/2012/06/15135844.html

 罪を犯したら、裁判で有罪になるのが当然である。しかし法治国家においては、罪を犯していながら、法では裁けない悪人というのが存在する。上野千鶴子天下りも、覆面パトの目を逃れながらのスピード違反も、法では裁けまい。それがわかっていて、ツイッターで自慢するのである。犯罪者としての後ろめたさもない。
 法治国家は、罪刑法定主義は、こういう悪人を生むのである。上野千鶴子というのは、木嶋佳苗小沢一郎と同種の人間である。