芸術のようなもの

 秋山祐徳太子『泡沫桀人列伝』を読む。モダンアートはもはや何でもあり。しかしながら埋もれた芸術家がこんなにいるのか、とおどろかされた。内容は、松岡正剛の千夜千冊にくわしい。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0818.html
 まあバカなやつらである。モダンアートというのは、誰が一番最初に新しいことをやるか、を競うゲームみたいなものだ。
 芸術家になりたければ、まず自称すればいい。つぎに何かやる。これは何でもいい。その行為に芸術っぽい名前でもつければ、芸術っぽくなる。それで評論家みたいな人に、それを芸術だと言ってもらえたら、立派な芸術である。何かのまちがいで賞とかもらったりすると、一般の人はそれだけで、芸術だなあ、と感心するので、しめたものである。
 秋山祐徳太子というのは、70年代に都知事選に立候補して話題になった人であるが、何をやって食っているのだろうと思ってウィキペディアを見ると、札幌大学客員教授をやっていたようだ。芸術家ぶって反権力を標榜しながら、ちゃっかり教員におさまって純朴な学生たちにご高説を垂れているわけか。
「1本の線を500人が次々なぞる伝言ゲーム的実験」というのがあって、これで平気でルール破りをするようなタイプが芸術家、もしくはキチガイか犯罪者であろう。
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1679941.html