輪島裕介『創られた「日本の心」神話』(光文社新書)を読む。
「演歌は日本の心」などと言うが、「演歌」が生まれたのは1960年代後半であり、たかだか40年程度の歴史しかない。演歌は、いかにして「日本独自の国民的」ジャンルとなったのか。著者はそれを膨大な資料を基に解き明かしていく。
昭和30年代までの知的な言説の中では、レコード歌謡は「低俗」とみなされていた。しかし新左翼の台頭とともに、「対抗文化」という考えが広まり、大衆文化においては低俗なものこそ真正であるという思考の枠組みが形成される。それまでは克服されるべきものであった「暗さ」「貧しさ」「土着」「情念」といったものが、審美的に称揚され始める。
「演歌/艶歌」とは、対抗文化的な知識人が発明したものである。その中心人物であった寺山修司、五木寛之、竹中労、平岡正明らは、ようするにプロレタリア芸術論をやっていたわけだ。
私見では、呉智英のマンガ論にも、町山智浩の映画論にも、そういう傾向はある。
音楽的にも、演歌のルーツは「日本調(純邦楽や民謡)」ではなく、昭和初期から一貫してクラシックやジャズ、ハワイアンなどの軽音楽である。さらにタンゴ、ボレロ、マンボの影響さえあるのである。そうした和洋折衷は、いわゆる歌謡曲やJポップと変わるところがない。
都はるみの「唸り節」という歌唱技法は、これぞ演歌だと考えられている。しかし、その歌唱技法は、直接的に浪曲に由来するものではない。母が娘の歌に個性を与えるために、「唸り」を強調するように命じたのがきっかけである。
本人の回想によれば、練習しても母のイメージするところを理解できず、当時ポピュラー歌手として人気絶頂であった弘田三枝子の歌い方を模倣することで、あの唸りを身につけたといいます。例えば《子供ぢゃないの》での「今でもガムを買ってくれるから嫌い」の「嫌い」の部分での押しつぶしたような発声を想起してください。
現在の意味での「演歌」の歌唱法の一つの頂点ともいえる都はるみの極端な「唸り節」が、戦後のアメリカ音楽受容のひとつの到達点として、小林信彦をして「戦後17年は無駄ではなかった」と言わしめた弘田三枝子の歌唱技法に由来していることは、きわめて驚くべき事実です。
(同書・96ページ)
弘田三枝子の「唸り」ともいうべきシャウトは、「嫌い」の部分より、冒頭の「先生は駄目だと云うけれど」の「駄目」の部分のほうがわかりやすい。
それにしても、弘田三枝子の歌声は、すばらしい。
創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)
- 作者: 輪島裕介
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2010/10/15
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