天才なのかバカボンなのか

読売新聞の記事より。
赤塚不二夫」とは、漫画バカたちの「傑作」
文化部の石田汗太氏が書いてるんだけど、赤塚不二夫はすでに60年代ごろから、自分ではペンを握っていなかった。

では、誰が描いていたのかというと、アシスタントたち。

『おそ松くん』(1962年)では、高井研一氏が、「うまく脇役が描けない」という赤塚さんの代わりに、六つ子一家以外の大半のキャラクターを創案した。
イヤミの「シェー!」を初めて描いたのも高井さん。

そればかりか、70年ごろまで、「天才バカボン」や「もーれつア太郎」など、月産300枚に達する原稿の鉛筆下書きを、すべて高井さんがやっていたそうだ。

ペン入れは、古谷光敏さんらの仕事。
のちに『ダメおやじ』で知られる古谷さんは、当時、「バカボン」のアイデアの中心を担い、さらに「ウナギイヌ」までデザインしたという。
(記事より引用)

記事の紹介を続けると、古谷さんによると、
「赤塚漫画とは、いわば赤塚不二夫というのれんを掲げたすし屋なんです」

「大繁盛店だから、一人ではとても握れない。だから優秀な職人を集めて握らせた。それでも『赤塚のすしの味』ならば問題はないんですよ」

しかし、「ネーム(下書きとなる絵コンテのようなもの)」だけは、赤塚さんがやっていて、誰にも譲らなかった。

「きちんと絵が入ってなくても面白い。しかも早い。僕を含め、赤塚ギャグを継承する人が結局出なかったのは、あのネームのうまさを、誰も真似できなかったからです」

石田記者は99年に、赤塚氏にインタビューし、「早くからペンを握ってなかったそうですが……」とたずねると、赤塚氏はうなずき、「おれのギャグの精神はセリフだから」と言った。

赤塚さんの本来のタッチは、アッコちゃんやバカボンのママのようなかわいらしい絵だったという。
だが、それでは理想のギャグを表現できない。
赤塚さんは高井さんをパートナーにし、古谷さんらのアイデアを借り、自分はネームに専念することで、唯一無二の「赤塚印」漫画を完成させたのだ。
(引用終わり)

と、いうことです。いままで公にならなかったというのは、ある種のタブーだったのか。