谷川俊太郎と寺山修司

 寺山修司の死因は、誤診であった。田中未知は『寺山修司と生きて』(新書館)でそう告発している。
 寺山修司は長らくわずらっていた肝硬変で亡くなったのではなく、それとは関係のない腹膜炎(盲腸)を担当医が見抜けなくて死んだ。まともな医者にかかっていればもっと生きられた。医師の名は庭瀬康二。谷川俊太郎の従兄弟で、これも谷川俊太郎の紹介で寺山修司の担当医となった。
現代詩手帖』(1983年11月臨時増刊「寺山修司特集」)に掲載された谷川俊太郎、庭瀬康二、九條今日子による座談会「討議=死はフィクションになりうるか」の中で、庭瀬康二はこの誤診をみずから暴露し、これを「劇的な誤診」と呼んだ。
 以下は『寺山修司と生きて』に引用された、座談会での庭瀬康二の発言である。

寺山修司というのはぼくの精神形成史から言って、あまり影響を受けた存在じゃないんです。わりに齢が近いし、ぼく自身、だいたい自分ができ上がってから彼が世に登場してますからね。むしろ唐十郎の方が親しかった。彼を紹介されて会う前に角川文庫を買って来て、とにかく十何冊も読んだんですよ。その時に感動は受けなかったですね。(314頁)

僭越な言い方だけど、問題は医師としてこの男にどういう人生を送らせてやるか、一言で言えば、彼の余命は非常に少ない。それをこちらのコントロールできる範囲においてどうやったらいいのか、というテーマを医師として負ったわけです。もちろん、肝硬変は誤診をしなかったけど、最後に、劇的な誤診をするわけです。(315頁)

彼が文学者として全うできるかどうか、もっといえば、彼に死の宣告をすることによって「良き作品」が残せるかどうかという問題だったんです。(中略)かなり後になって小笠原院長が「なあ庭瀬君、寺山に死が近いことを言っても、いい文学作品は出そうにないな」と言い、ぼくも「そうですね、彼はちょっと神経質すぎて、しんどいですね」と言ったことがあるんですよ。つまり、医師の側としては「とにかくもう二、三年ぐらいしかないから、いい作品を書きなさい」とウエイトをかけて、これはもちろんウエイトの問題だけど、そう強調することによってある緊張関係をわれわれとの間に作って、その上で戦う彼を見守る、というシチュエーションは作らなかったわけです。(316-317頁)

もう一つ彼におどしをかけたのは、「あなたはもうじゅうぶん生きたじゃないか」というテーマね。啄木はわずか二七歳、三島は四五歳、漱石は四九歳、みんな立派に大きな仕事をして死んでいる。「そう長生きすることもないでしょう」と言ったんだけど、一貫して彼は答えなかったね。(324-325頁)

 いったいこれが医師の言葉か、と耳を疑う暴言の数々である。さらに病状が悪化した寺山の病室で、庭瀬医師は次のような言動に及んだと田中未知は書いている。

 四時半頃に庭瀬医師も病院に着いている。
 だが、彼が病室に入って来て口にしたのは、信じられない一言だった。
「いやー、生きた、生きた、充分生きた。啄木も二十七歳で死んでいるんだから」
 私たちに聞こえるように言っているのか、寺山に話しかけているのか、定かではなかった。いずれにせよ、この医者の気持ちがいまなおまったく理解できないままだ。病室に入って来て、患者にこんなことを言う医者なんているものか!(360頁)

 田中未知が憤るのも当然である。『現代詩手帖』での寺山修司特集を樋口編集長と共に企画したのは田中未知であった。しかし、田中未知の知らないうちに、谷川俊太郎によって庭瀬康二らとの座談会が組まれて掲載されようとしていた。田中未知は樋口編集長にこれを掲載しないよう申し入れるが、谷川俊太郎の恫喝によって拒否される。

 私はこれを読んで、頭に血が上る思いだった。話の内容に驚かされたのだ。寺山が平気で傷つけられているだけではない。話している人々の勝手さ、その言い分にどれほど腹が煮えくり返ったか分からない。
 私はすぐに、「これは雑誌に掲載しないでほしい」と申し出た。
 だがしばらくして、樋口さんから「掲載しないわけにいかない」との答えが返ってきた。谷川さんが「『現代詩手帖』が個人の権力で掲載をストップするなら、ぼくはそのことを他の雑誌に書く」と言ったというのである。
現代詩手帖』にとって、日本の大詩人である谷川さんを敵に回すことはできないというのは理解できる。けれど、私の申し出が「個人の権力」などという言葉に変わっていることに驚いた。こちら側の思いが何なのか、一言も尋ねることもしないで、谷川さんは私がただ力でストップをかけているとしか考えていないのだ。
 谷川さんのその反応にも驚いたが、同時に、こういった力の強い人によって現実に社会が動いていることを知って驚いた。世の中とはそういうものなのか。私には納得できないことばかりだった。(304-305頁)

 それでこの庭瀬康二による誤診と暴言の数々が世に出ることになったわけである。しかしそれはかえってよかったかもしれない。これほど傲慢な人間がこの世に存在することの証拠として、この座談会は貴重な資料として残った。自分が紹介した医師が誤診をしたことに何の罪悪感も抱かず、その暴言をいさめることもなく、ばかげた文学談義に花を咲かせる谷川俊太郎の愚鈍かつ傲慢な姿を記録した点においても。
 寺山修司と比べれば、谷川俊太郎など凡庸な詩人にすぎない。