ラース・フォン・トリアー監督『ドッグヴィル』をみました。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を見て、気になってた監督ですけど。
それで、『ドッグヴィル』という映画は、ロッキー山脈の麓にあるドッグヴィルという架空の村が舞台になっています。
そこに、ニコール扮するグレースという女性が逃げ込んでくる。
ウィリアム・フォークナーが描いた「ヨクナパトーファ・サーガ」を思わせる舞台設定ですね。大江健三郎における、四国の「森の谷間の村」でもあるし、中上健次における、紀州の「路地」でもあります。そういう孤立した場所における、物語。
大江健三郎の『飼育』では、村人が黒人を飼うわけだけど、『ドッグヴィル』では、女を飼うわけ。
映画といっても、現地ロケしてるわけじゃなくて、だだっ広い倉庫みたいな場所で、床には白いラインだけが引かれていて、そういう何もない場所で、俳優たちは、演技をしています。まさに演劇みたいな空間表現。
そういう場所で、いろいろやっているがゆえに、より暴力的だったり、エロティックだったりします。ただ、翻訳の問題もあるのか、やたらに陳腐な文学的修辞がいっぱいの、ナレーションはちょっとうざい。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』もそうだったけど、この監督の作風は、ダサいのか、おしゃれなのか、よくわからないところがありますね。なんか古臭いプロレタリア映画とか、教養映画とか、日本昔話とか、「北の国から」とか、そんな感じもします。
途中でちょっと退屈してくるけど、ラスト近くになると、ぐっとおもしろくなります。
フォークナーは、「ヨクナパトーファ」で生き続けるし、大江健三郎は、「森の谷間の村」を癒しの空間に変えてしまうし、中上健次は、「路地」から出て行く。
しかし、『ドッグヴィル』は……。
というのは、見てのお楽しみ。
侵略とか、大量殺戮とか、内戦とか、そういうものの、「殺す側の論理」というやつを見せられたような気がします。
まったく対照的な映画だけど、ジョン・フォードの『わが谷は緑なりき』を、思い出したりもしました。
この監督の映画はいろいろ考えさせるものがあるので、他の作品も、見ようかなと思っています。