「表現の不自由展」の目的は天皇制批判

「表現の不自由展・その後」は芸術を政治利用した愚劣なプロパガンダである。私はこのような展覧会は批判されて当然だと思っているが、同時にこのようなプロパガンダに加担した芸術家も批判されなければならないと考えている。
 この展覧会が意図としているのは、その実行委員会の顔ぶれを見ればわかるように、日本の戦争責任の追及と天皇制批判である。芸術の政治利用は、これまでにも左右問わず行なわれてきた。戦時中は軍部が芸術家に戦争画を描かせ、また共産党階級闘争と革命の意義を芸術家に絵解きさせた。
 このように芸術を政治利用するのは愚劣であると同時に、政治に利用される芸術家も愚劣である。であるから津田大介や実行委員会は批判を受けて当然であるし、このプロパガンダに協力した作家たちの責任も追及されて当然である。
「表現の不自由展・その後」の本質がプロパガンダである以上、芸術論や表現の自由についての議論を戦わせたところで、不毛である。津田大介や実行委員会には芸術をわかる頭がないのは明らかであるし、芸術家たちには政治がわかる頭がない。
 私が不思議なのは、表現の自由憲法によって保障されている権利だなどと賢しらに主張する者たちが、なぜ天皇の戦争責任については何も言わないのかということである。肯定するにせよ否定するにせよ、天皇の戦争責任を議論することはおろか、そのワードを口にすること自体タブーなのだ。
「表現の不自由展・その後」に何らかの意義があったとするなら、いまだこのタブーが存在することを知らしめた点である。
「遠近を抱えて」の作者・大浦信行の意図がどうであれ、実行委員会は昭和天皇の肖像を焼くこの作品を、天皇制批判の文脈で展示したのはまちがいない。あれは昭和天皇の「御真影」ではなくコラージュした版画が載ってる図録で、しかもそれを焼いたのは富山美術館だなどというのは、姑息な言い訳に過ぎない。プロパガンダを目的としているのであれば、表現の自由だの検閲だのと寝ぼけたことを言わずに、堂々と天皇制批判のロジックをぶつけて議論すればいいのだ。
 天皇の肖像を焼くのはたしかに「不敬」であろう。しかしながら、アメリカは第二次世界大戦時に多くのプロパガンダ映画を製作し、天皇裕仁の肖像をヒトラームッソリーニと一緒に並べ、大悪人として描いている。
『Why We Fight (なぜ我々は戦うのか)』というその映画を監督したのは、アカデミー監督賞に三度輝く名匠フランク・キャプラである。
『Know Your Enemy : Japan(汝の敵日本を知れ)』という映画において天皇裕仁は、米国大統領やソ連首相に並ぶ権力を持ち、さらにローマ法王やロシア大主教が尊ぶキリストの威光を合わせ持つ独裁者である。
 アメリカは天皇に戦争責任があると考えており、日本もまた戦時中の建て前としては、天皇に責任がないと公言する政治家・軍人はいなかった。天皇は最高機関であり、統帥権統治権天皇の大権だったのであるから、逆に天皇に責任がないなどと公言すれば、不敬罪となったであろう。
 当時の枢密院議長だった平沼騏一郎は、ポツダム宣言第12項によって国体が破壊されることを危惧し、これに異議を唱えた。かりに「日本国民の自由意志に従って樹立された平和的政府」に天皇制が含まれるとしても、国民の意思によって天皇が認められるなどということ自体、許し難いことだと主張した。天皇は、国民の意思なんぞによって選ばれる俗な存在ではない。神意によって日本の統治を定められたのが天皇でなければならないのである。(半藤一利『日本のいちばん長い夏』文春新書)
 アメリカをふくむ連合国が天皇の戦争責任を問わず、戦後も天皇制が存続することになったのは、戦略上の理由である。だが、平沼騏一郎のような天皇主義者にとってこの決定は許しがたい。天皇は神なのだ。連合国によるポツダム宣言によって天皇制を容認されることが天皇制存続の根拠である、ということ自体、国体の本質に反する。
 このロジックは、現在も生きている。浅田彰が言うように、「平和憲法」がアメリカに押し付けられたものだと言うのなら、「昭和天皇退位なしの天皇制存続」もまたアメリカに押し付けられたものだと言うべきなのだ。(REALKYOTO「昭和の終わり、平成の終わり」2019年05月01日)
 そこで、日本国憲法第1条である。

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 天皇主義者であるなら、国民の総意に基づいて天皇が認められるなどということ自体、許し難いことだと言わなければならぬ。神意によって日本の統治を定められたのが天皇なのだ。憲法は改正すべきだ。しかしこれもまた、憲法天皇の地位を規定することが天皇制存続の根拠となる。これ自体、国体の本質に反する。
 神である天皇が、なぜ憲法ごときにその地位を規定されねばならぬのか。
 憲法第1条は、左も右もなく問題である。
「表現の不自由展・その後」には、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句が展示されている。私はこの作者とその取り巻きたちに、天皇の戦争責任についてどう思うのか問うてみたい。
 憲法改正に反対ならば、憲法第9条とともに第1条を守り、このまま天皇制を容認するつもりなのか。

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天皇制批判の常識 (新書y)

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芸術家の政治責任

「表現の不自由展・その後」が政治的に偏向してるのは明らかである。
 Chim↑Pomなら「気合い100連発」ではなく、「ヒロシマの空をピカッとさせる」が選ばれるべきだ。これは2008年に、広島原爆ドーム上に飛行機雲で「ピカッ」と描いた作品で、被爆者団体や市民らの「不快」だという抗議により、Chim↑Pomは予定していた広島市現代美術館での個展を中止に追い込まれた。このことは多くのメディアで報道され、決して大げさではなく日本現代美術史に記録されるべき事件であった。
 まさに、「言論と表現の自由」が脅かされた作品である。
 しかしながら、「ピカッ」ではなく、「気合い100連発」が選ばれたのは、それが「表現の不自由展・その後」を主催する者たちの政治思想に合致するからである。表現の自由を弾圧するのは、あくまで政府機関でなければならず、善良な被爆者団体や市民の抗議によって抹殺させられた作品というのでは、都合が悪いのだ。
 でありながら、その「気合い100連発」さえ、芸術を解しないネトウヨから震災の被災者を揶揄しているなどと誤解され、炎上しているのを見ると憫笑するしかない。私は「気合い100連発」をすぐれた作品だと思っているし、何度見ても泣きそうになるが、かといってこの炎上について擁護する気にはならない。それは「表現の不自由展・その後」に出展されているすべての作品について、中にはすぐれた作品もあると思いつつ、擁護する気にならないのと同じ気持ちだ。
 Chim↑Pomは公式サイトで「気合い100連発」を、「この作品自体は、反原発とか、政治的な立場はまったく取ってない」と解説している。何を甘えたことを、と思う。福島第一原発事故をモチーフに作品を発表すれば、政治的な立場を問われるのは当然ではないか。
 それは「間抜けな日本人の墓」と訳されて炎上した中垣克久や、昭和天皇の写真を焼いたと誤解されて炎上した大浦信行も同じである。
 かまくら型の外壁に憲法9条尊重、靖国神社参拝批判、安倍政権への警鐘などの文言を貼り付け、日の丸と星条旗をあしらった政治的作品を発表しておきながら、中垣克久は、「僕は自分の作品をみんなが見て大笑いするんじゃないかと思って作った」「僕たちはファインアート(純粋芸術)で、なんの意味もなく作っている」と話している。(「Ameba TIMES」2019.08.09 19:15)
 天皇コラージュ事件で最高裁まで争った大浦信行もまた、「反権力の観点から天皇制を批判したとか、そういうイデオロギー的な関心じゃないんです」「自分の中に無意識に抱え込んでいた“内なる天皇”を自画像を描くなかで描いてみたいと思ったんです」と答えている。(「創」8/7 16:02)
 このように、政治的作品を発表しておきながら、自分の政治的立場については言葉をにごす芸術家を見るたびに、逃げていると感じる。なぜ堂々と自分は反原発だ、反政府だ、反天皇だ、と主張しないのか。
 彼らの芸術作品の「真の意図」などを訳知りに吹聴し、擁護に回る者たちも同様である。これでは、おれは右翼だ、愛国者だ、と臆面もなく主張する者たちに立ち打ちできまい。ここで問われているのは作品の芸術的評価ではなく、その政治的意図なのだ。それを避けていくら議論をしても、無意味である。
 自分はただの芸術主義者だから、政治的立場などない、何も考えていない、というのも立派な政治的立場の表明である。愛も平和も金儲けも、政治である。政治的でない芸術などないのだ。そのことに彼らはあまりに無邪気ではあるまいか。
 はじめに私は、「表現の不自由展・その後」は、政治的に偏向していると述べた。もっとはっきり言えば、芸術を政治利用した愚劣なプロパガンダである。表現の自由への介入も、プロパガンダも、どちらも芸術を政治利用しているのだ。
 表現の自由を問うなどというのは口実で、この主催者の真の目的は、日本の戦争責任の追及である。ならばそういうテーマで好きなだけ討論会でもやればいいのであって、芸術を利用すべきではない。また芸術家は、このようなプロパガンダに加担してはならない。
 芸術家は無邪気であっていいかも知れない。しかし無邪気さゆえに、偏向したイデオロギーに利用され、戦争画やプロレタリア絵画に手を染めるというのであれば、その無邪気さは罪である。

たのしいプロパガンダ (イースト新書Q)

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