「いじめ紀行」は作り話の差別記事

目次

ジャーナリズムの原則

 赤田祐一の「『いじめはエンターテイメント』ではない」というコメントが出ました。
 初期『クイック・ジャパン』の編集方針は、〝ニュー・ジャーナリズム〟だそうです。「大手マスコミの報道記事を価値相対化したいという意図」があったそうです。
 それならば、「いじめ紀行」は悪趣味系サブカルチャーではなく、ジャーナリズムの文脈で考察すべきかと思います。
 ジャーナリズムの原則はまず、「一次情報に当たること」「裏を取ること」です。

一次情報とは何か

 新聞や雑誌の記事、ニュースを一次情報だと思っている人がいますが、まちがいです。
 一次情報とは、自分が実際に体験して手に入れた情報のことです。つまり事件の加害者や被害者、目撃者が持っている情報のことです。
 新聞や雑誌の記者というのは、そうした一次情報者から話を聞いて、記事を作ります。第三者が関わることによって、オリジナルの情報は編集・加工され、情報の信頼度は落ちていきます。ちょうど伝言ゲームのように、関係するライターや編集者が増えるごとに、一次情報の価値も信頼度も落ちていきます。
「朝日新聞」も「文藝春秋」も「東京スポーツ」も「北海道新聞」も「週刊実話」も「実話BUNKAタブー」も、情報の精度に差はあれど、その記事は二次情報です。一般読者が知ることができるのは、ほとんどがこうした二次情報です。
 ちなみに三次情報というのは、情報源が不明な情報のことです。

「いじめ紀行」と報道被害

 ニュー・ジャーナリズムというのは、1960年代にアメリカで生まれたスタイルです。
 これは取材者がみずから事件の現場に飛び込み、そこで見て聞いて感じたことを記事にする手法です。しかしジャーナリズムである以上、必ず情報の真偽を確認する作業、いわゆる「裏を取る」ことは欠かせません。

 この原則からすれば、赤田祐一が編集担当した「村上清のいじめ紀行」は、二次情報であるうえに、情報の信頼度も低いです。この記事の中で、一次情報を持っているのは小山田圭吾ですが、謝罪文において「記事の内容につきましては、発売前の原稿確認ができなかったこともあり、事実と異なる内容も多く記載されております」と述べています。
 これによって、「村上清のいじめ紀行」は、事実を意図的に編集し、誇張した記事であると判明しました。ほとんど作り話です。
 そうではないのなら、赤田祐一や北尾修一は、小山田圭吾に反証を示さなければなりません。

 しかし、和光中学の名簿を入手して被害者の家庭を訪問していること、被害者が書いた年賀状の画像が掲載されていることから、記事に登場する障害者とその家族は実在の人物だと確認できます。そして記事の中で小山田圭吾が、いじめの手法を詳細に語ったこと、障害者に対して差別的な発言をしたことも事実と認定できます。
「いじめ紀行」は彼らの人権を侵害しており、これはメディアによる報道被害と考えられます。

小山田圭吾の二面性

 一次情報者の話すことが、すべて事実とは限りません。人は噓をつき、話を誇張し、また事実を隠します。まともな記者ならまずその発言を疑い、裏付け取材をします。
「村上清のいじめ紀行」は、小山田圭吾へのインタービューを中心とする記事ですが、この発言の真偽を確認する作業を怠っています。被害者には取材していますが、「いじめグループ」にいた加害者たちの証言が何もありません。
「毒ガス攻撃」やプロレス技をしかけた生徒は本当にいたのでしょうか。
「いじめた側の人がその後どんな大人になったか」という企画意図であれば、実行犯のその後こそ取材すべきでしょう。

 したがって、小山田圭吾がどういう生徒で、いじめにどう関わっていたのかも不明です。
「アイデア担当」「ぜんぜん友達いなくてさ」「ちょっと引いてる部分もあったっていうか」「かなりキツかったんだけど」という発言も、小山田がそう語ったとされるだけです。

 当時24歳だった小山田圭吾の同級生に取材することは、被害者を探し出して取材するよりずっと容易だったはずです。同級生の小沢健二に聞くこともできたでしょう。こうした裏取りをしないまま記事にした担当者には、明白な落ち度があります。
 小山田圭吾の同級生に取材した「週刊女性PRIME」(2021/7/21)の記事によれば、「いじめ紀行」で語られた小山田の自己認識や、また赤田祐一が感じた「〝隅の人〟と関わり合うことを厭わないタイプの人」という印象ともまた違う、小山田圭吾像が明らかにされています。
www.jprime.jp

「いつも5~6人くらいの友人と一緒にいて、自分の仲間以外はバカにしているような態度をとっていました。“自分は特別な存在だ”という感じでしたね」(同級生、以下同)

「確かに、障がいのあるクラスメートに対して“気持ち悪い”とか言ってからかっているのを見たことがあります。障がいのある子に声をかけて、少し変わった反応をするのを見て楽しんでいる様子でした。ただ、1人では絶対にやらずに、いつも集団で行動していましたね」

「いじめがカッコいいって思っていたんじゃないかな。その後の雑誌のインタビューでの“いじめ自慢”も、いかにもやりそうだなと思いました」 
(引用元 「週刊女性PRIME」(2021/7/21)

 どの証言も正しいと仮定すると、小山田圭吾には二面性があります。
 障害者と関わり合いながらも、一方で「いじめグループ」に虐待のアイデアを提供しています。いじめの現場を見てキツいと思いながらも、それを雑誌のインタビューで笑いながら話しています。

 この企画は当初、いじめた側といじめられた側を対談させる、というものでした。しかし、小山田圭吾がいじめの実行犯でなければ、被害者は小山田にいじめられたとは思っていないはずです。したがって、この企画は成立しません。どうしてもこの企画をやりたいのであれば、いじめの実行犯と被害者とを対談させることです。
 それとも、村上清は被害者たちに「あなたは小山田圭吾を友達だと思っていたかもしれないけど、じつは、いじめのアイデアを出していたのは、小山田でした。そこで、いじめた側の小山田圭吾と対談してもらえませんか?」と聞いて回ったのでしょうか。何のために?

村上清も報道被害者か

 当時、小山田圭吾の同級生に取材しなかったのは、なぜでしょうか。もしも取材しており、小山田圭吾が話を盛っているのをわかっていながら、こうした記事にしたのなら、それはもうジャーナリズムではありません。
 赤田祐一は、企画意図を次のように述べています。

 企画者で、当時フリー・ライターの村上清(同誌5号から編集部に参加)は、自身を〝いじめ被害の体験者〟と言明した上で、いじめという人間の愚行を逆説的に、いじめた側、いじめられた側の双方に取材をおこない、同時に、我がこととして真伨に受け止め、長文ルポというかたちで取材構成した。私は、影に隠してしまうのではなく、この企画を読者に読んで頂くことで、世のいじめ自殺を無くすことにつなげられるのではないかとも考えていました。
(引用元 赤田祐一「『いじめはエンターテイメント』ではない」)

 北尾修一もまた、「自身も壮絶ないじめサバイバーである」村上清が以下のような、切実な問題意識を持って立ち上げた企画だったと述べています。

●いじめについて新しい角度から考える、自分にしか書けない記事が作れないか。

●いじめ=絶対悪とみんな口では言うけれど、それなのに、なぜ世の中からいじめはなくならないのか?

●そもそも自分は本当に《いじめられて》いたのか?

(引用元 北尾修一「いじめ紀行を再読して考えたこと 03-『いじめ紀行』はなぜ生まれたのか」)

 しかし奇妙なのは、「いじめ紀行」の本文で村上清は、「僕自身は学生時代は傍観者で、人がいじめられるのを笑って見ていた」(P52)と書いている点です。いじめられたのも「短期間」と書いています。取材者自身が経験したことをそのまま書く、というのがニュー・ジャーナリズムであれば、村上清は信用できない書き手です。
 村上清がこのような露悪的な書き方をせず、「いじめ被害の体験者」として被害者側からの視点を盛り込んでいれば、この記事はもっと真摯なものになっていたはずです。なぜ、そうしなかったのでしょうか。

 さらに奇妙なのは、こうした村上清が、『ロッキング・オン・ジャパン』の小山田圭吾インタビューを読んだことをきっかけに、取材に動くことです。
 村上清がいじめられたことと、小山田圭吾は無関係です。

「そもそも自分は本当に《いじめられて》いたのか?」というのが村上清の切実な問題意識であるなら、自分をいじめた相手に会いに行けばよかったのです。自分をいじめた相手と、対談すればよかったのです。いじめた相手に「なんで僕をいじめたんですか」と、呪いの言葉を投げつければよかったのです。
 それこそがニュー・ジャーナリズムの手法でしょう。

 連載企画である「いじめ紀行」は、赤田祐一によれば「最終的には取材対象者を見つけて出演の了解をとることが難しくなり、連載四回目でフェードアウト、未完のまま終了となった」とのことです。
 取材対象者がいなくなったのであれば、なおさら村上清が、自分をいじめた相手を取材すればよかったのです。せっかくつかんだ商業誌での連載が終わるとなれば、そのくらい体を張ってもおかしくないでしょう。
 それでも連載終了となったのは、もともと村上清は、この企画をやりたくなかったのかも知れません。

 この企画のタイトルが「村上清のいじめ紀行」でありながら、私にはこれを村上清が本当に書いたとは思えないのです。少しは書いたにせよ、編集者が加筆や修正をしているはずです。
 たとえば、小山田圭吾のことを「ヤバい目つきの人だなあ」(P53)と書いたうえで、そこに「ダウンタウン松本と同じ目だ」という脚注をつけています。こうした文章からは、まったく切実な問題意識が伝わってきません。いじめをエンターテイメントとして、面白がっているようにしか読めないのです。したがって村上清もまた、この記事による被害者なのかもしれません。
 このひどい文章を書いたのは、本当は誰なのでしょうか。

元記事は差別を助長する

 赤田祐一は当時の「いじめ自殺の連鎖」におけるマスコミ報道を、「タテマエ論」だと批判しています。そのことは「いじめ紀行」の村上清が書いたとされる地の文章にもあります。しかし、「大手マスコミの報道記事を価値相対化したい」と思うのは結構ですが、事実の裏付けもないインタビューを意図的に切り貼りして嘘と誇張にまみれた記事を作るのは、ジャーナリズムでさえありません。

 赤田祐一はこれを「一本の作品」と呼び、北尾修一もまた「読み物」と呼んでいます。それではいったい彼らは、どんな作品と読み物を作ったのでしょうか。
 例えるならそれは、集団で女性をレイプした加害者の一人にインタビューし、「自分はアイデアを提供しただけ」「女性がレイプされるのを見ていてキツかった」「被害女性のことが好きだった」などといった言葉を恣意的に切り取って編集し、二人の間には心の通い合いがあった、本当は女性に優しい男だった、ということにしたのです。

 これが完全なフィクション(作り話)なら、百歩譲ってそういうポルノもありかもしれません。しかし、「いじめ紀行」には被害者が実在します。被害者の了解を得ることなく、こうしたポルノに出演させたことは絶対に許されません。
 さらに、両者の間に「心の通い合い」があったと解釈すること自体が、被害者の尊厳を著しく傷つけるということに、どうして彼らは思い至らないのでしょうか。

 版元の太田出版は社長名義で、次のような謝罪声明を公表しています。

 当時のスタッフに事実・経緯確認を行い、記事を再検討した結果、この記事が被害者の方を傷つけるだけでなく差別を助長する不適切なものであることは間違いないと判断しました。

 赤田祐一も北尾修一も、おそらく事実・経緯確認に参加しておきながら、この謝罪声明に反するコメントを発表しました。これは問題だと思います。太田出版には再度、赤田祐一と北尾修一に事実確認を行い、コメントを発表してもらいたいです。
 太田出版は元記事を「差別を助長する不適切なものであることは間違いない」と判断しています。日本自閉症協会も、「この特集記事はいじめや差別の被害者の視点を欠いており、出版意図に関わらず、いじめや差別を助長します」という声明を発表しました。
 ところが、赤田祐一も北尾修一も、「全文を読んでから、批判などして頂きたいものです」と述べています。
 元記事の拡散が、さらに差別を助長し、二次被害をもたらすとは考えてもいません。

「いじめ紀行」は、二次情報にすぎません。赤田祐一と北尾修一が、小山田圭吾インタビューを恣意的に切り取って編集した読み物です。
 虐待の加害者と被害者の間には「心の通い合い」がある、というのが彼らが読み取ってほしいメッセージです。
 しかし、読者にそのメッセージを読み取れと強要するのは、作者の傲慢にすぎません。公開された読み物は、誰がどのように批評するのも自由です。

 赤田祐一はこれを、〝ニュー・ジャーナリズム〟だと言いますが、それならばなおさら、ジャーナリズムの原則に従わなければなりません。報道被害が生じたなら、それを検証する義務があります。
 小山田圭吾の発言を、どのようにカットアップしてつなぎ合わせ、嘘と誇張と差別にまみれた「一本の作品」を作ったのか、それを明らかにするべきだと思います。

www.spectatorweb.com
日本自閉症協会の声明
http://www.autism-japan.org/action2/2021/20210806seimei.pdf

koritsumuen.hatenablog.com
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