芸能界は部族社会

 かつては党派性などと言ったが、普段えらそうに政府を批判しているやつらが、映画や演劇や音楽や文学など自分が与する業界で不祥事が起きたとたんに、いっせいに口をつぐむか、愚にもつかない擁護をはじめる姿を目の当たりにすると、いまだに我々は部族社会に暮らしているのだという思いを強くする。
 部族社会とは何かについて、ジョセフ・ヒース著/栗原百代(翻訳)『啓蒙思想2.0』の記述を参考にしながら述べてみよう。(168-181頁)
 トマス・ホップズは人間の自然状態、すなわち法律も政府もないときの生活を「孤独で貧しく、つらく残忍で短い」とした。しかし、人間は自然状態で孤独であるよりも、部族的であることを選んだ。つまり、家族や友情(血と名誉)で結ばれた小さなコミュニティや集団を形成し、それは集団内の強力なオキテによって統制され、敵対的で概して暴力的な部外者との関係を通して強化される。
 一人で孤独に暮らすのでは、食料の調達にも困り、いつ敵に襲われるかも知れず、それよりも部族社会を形成する方が利点ある。そこから部族の仲間への忠誠心が生まれ、赤の他人を助けるよりは、同胞を、仲間を、私たちの側の人を助けるようになる。共通の敵を作ることで、部族内の結束を強める。
 部族社会の秩序は、裏切り者への報復という形で守られる。
 チンパンジーは「私はあなたの、あなたは私の背中を掻く」式の協力関係はたくさん結ぶものの、相手がお返ししなければ、あっさり関係をやめて、もう二度とその相手とは協力しようとしない。それに反して人間は、ルールを破ったり非協力な者に対して、罰を与えようとする。そういう者を許してしまえば、やがて組織の崩壊につながるからだ。
 全員がルールに従えば、みな生きやすくなる。しかしそうとわかっていても、フリーライダー(ただ乗り)の誘引は誰にでもある。ルールを破る者、協力しない者、自分では何もせずに組織の利益にだけ預かろうとする者、そういう者の存在は他のメンバーにも波及し、「あいつが協力しないのなら、俺もしない」と言い始める。だからこそ、組織にとって害になる者には、制裁が加えられなければならない。
 部族的な小さな集団では、こうした連帯と報復主義による協力システムは上手く機能している。しかし、集団が拡大するにつれて、ほころびも目立ってくる。
 このシステムの弱点は、事故の扱いがうまくないことだ。誰かが間違ったことをして仕返しに暴力を受けるのなら、正当な反応として受け入れられるだろう。だが、もし誤解か事故が仕返しの行為につながっていたら、仕返しされる人はそれを不当な攻撃とみなし、同じことをやり返すだろう。これは報復に次ぐ報復を引き起こしかねない。血で血を洗う抗争である。そして組織は、分裂または崩壊する。
 部族社会がそのままスケールアップし、それが国家になるわけではない。部族社会で高度な協力システムが組織されたとしても、そこで達成できる複雑さのレベルには限界がある。大規模な協力を達成するために、国家という共同幻想が用いられた。そこでは部族内でのルールや私的な報復は禁じられ、法律も武力行使もすべてが国家が独占することになった。
 だがしかし、われわれから部族意識が消えたわけではない。共通の敵をもつことが人々を互いに協力しやすくする。組織内のメンバーをもっと協力させるために、敵を人工的にでも作り出そうとする。国旗、国歌、軍事パレードといった部族的なしるしは、みな同じ部族の一人であるような幻想を作り出す。
 あらゆる主要な世界文明は、部族への忠誠を、広く階層的に組織され、実力行使の独占を要求する国家に従属させてはじめて発展したのだ。