証拠があれば事実と言えるのか

 アメリカ人の二割が、アポロ11号の月面着陸はなかったと信じている。キリスト教原理主義者は、ダーウィンの進化論もデタラメだと思っている。
 いくら証拠を積み上げたって彼らを説得することはできない。なぜなら知識の構成には二つの限界があるからだ。
 以下、ジュリアン・パジーニ著・向井和美(翻訳)『100の思考実験』所収「モッツァレラチーズでできた月」より引用する(文章を少し改変)。

 ひとつ目は、理解の本質が全体的なものであること。つまり、何か一つの信念は、網の目のように他の信念とつながりあっている。たとえば、アイスクリームは太る、という思いこみは、アイスクリームのカロリー含有量に関する思い込みとつながり、脂肪を摂取すれば体重が増加するという思い込みとつながり、栄養学は信頼できるという思いこみともつながっている。
 ふたつ目の理由。複数の事実があっても、それは一つの理論だけを確実に証明するための十分な証拠には決してならない。そこには常に空隙があり、別の理論が正しい可能性が残される。裁判で採用されるのはあくまで「合理的疑い」を排した証拠である。あらゆる疑いを排した証拠というのは、ありえない。
 このふたつの限界を考え合わせると、突飛な陰謀説にさえ可能性が開けてくる。月が岩の塊だという説には圧倒的な証拠があるものの、その証拠によって、何が何でもこの結論にたどり着かなければならないわけではない。証拠の空隙を利用すれば、月はチーズでできているという仮説からでさえ、証拠を矛盾のないものにすることはできる。それには、理解の網の目でつながりあった他の信念すべてを、うまく適合するよう配列しなおせばいい。顕微鏡の精度や、買収された人数や、月面着陸の真実味を見直すのだ。
 当然ながら、その結論は、かなり奇異なものになる。けれど、なんといってもそれは証拠に合致しているのだ。そのせいで、多くの人が陰謀説の魔法にかかってしまう。すべて合致しているという事実は、信念に通じる抗いがたい理由になる。けれども、別のどんな理論でも証拠に合致するし、それは、月がチーズでできているという説でも同じだ。
 証拠を伴った一貫性があるだけでは、一つの理論を合理性にかなう強力なものにすることはできない。
(345-347頁 引用終わり)

koritsumuen.hatenablog.com
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