読んでいない本について堂々と語る方法

 ピエール・バイヤール著/大浦康介(翻訳)『読んでいない本について堂々と語る方法』を読んだ。
 テクスト論という胡散くさい批評理論があって、私は全く信じていないのだが、作品は作者の意図とは無関係に解釈されるべきだという流派である。だから小説を読解するのにその作者の経歴や思想を知ることなど無意味だのというので、これを「作者の死」などとのたまう。
 まあそういう珍妙な理屈にも三分の理くらいは認めてもいいのだが、ピエール・バイヤールによれば、ポール・ヴァレリーは本を読まなかった。プルーストさえほとんど読んだことがなかった。しかしそれは、他の作家を正確に評価したり、彼らについて長々と意見を述べたりする妨げにはまったくならない。ある作品を理解するために作者について調べてもあまり意味がない、という考えはテクスト論と同じである。しかしながらヴァレリーはさらに、テクストそのものも厄介払いしたのである。
 私はポール・ヴァレリーというのがきらいで、評論を読んでいてこの名前が出てくるととたんに鼻白むのだが、これを知っていくらか興味が出てきた。ポール・ヴァレリーに強く影響を受けたのが、小林秀雄である。
 さて、『読んでいない本について堂々と語る方法』について、私はこの本をきちんと最初から最後まで読んでしまったので、この本について堂々と語るには気が引けるのだが、おもしろかったところを以下に抜き書きしてみる。

 この第一の侵犯は、もうひとつの侵犯によって裏打ちされているが、第二の侵犯は、ある本についていはどんな評価でも下しうるということに関係している。これは第一の侵犯が別の形をとったものにほかならない。ある本について語るのにその本を開いても仕方がないのは、あらゆる評価が可能であり、どんな評価も論証可能だからというわけだ。つまり書物は、純粋な口実になってしまい、ある意味で存在することをやめるのである。(176頁)

 書物において大事なものは書物の外側にある。なぜならその大事なものとは書物について語る瞬間であって、書物はそのための口実ないし方便だからである。ある書物について語るということは、その書物の空間よりもその書物についての言説の時間にかかわっている。ここでは真の関係は、二人の登場人物のあいだの関係ではなく、二人の「読者」のあいだの関係である。(194頁)

 しかし私は取り上げた作品について嘘をついていると感じたことは一度もない。作品から感じ取ったものをできるだけ正確に記述しつつ、自分自身に忠実に、またそれらの作品を援用する必要を感じた瞬間と状況に配慮しながら、いつも一種の主観的真実を述べてきたと自分では思っている。(197頁)

 まれにみる読書家であり、博識の人だったオスカー・ワイルドは、読まないことを推奨した作家でもあった。
「私は批評しないといけない本は読まないことにしている。読んだら影響を受けてしまうからだ」(211頁)

 本の記憶は穴だらけである。本の骨子は忘れて、奇妙なディテールだけが記憶に残っているということもある。本の赤いカバーだけを覚えているということもある。それに、各人が勝手な読み方をするのだから、二人寄って同じ本を話題にしたところで、それが「耳の聞こえない者どうしの対話」になるのも無理はない。(226頁・引用終わり)