まだ多数決で消耗してるの?

 坂井豊貴の『「決め方」の経済学』は勉強になった。多数決ってなんとなくおかしいよなあ、と漠然と思ってはいたのだが、それがやっぱりかなり問題のある制度だということが数理で証明されていて、ふむふむ、と思いながら読了した。
 著者によれば、多数決は「どうでもよいこと」を決めるのに向いている。
 単純な多数決よりも、もっとすぐれた決め方は他にたくさんある。そして決め方を変えれば、結果が変わる。単純な多数決よりも、ボルダルールの方が満場一致に近い決め方が実現できる。とはいえ、多数派の意見がつねに正しいとは限らない。
 1860年当時、アメリカでは奴隷制度を肯定する意見が多数派だった。だからもしこの時の大統領選挙で、多数派の意見がもっとも反映されるボルダルールが用いられていたならば、リンカーンは落選していた。ということは奴隷解放宣言は発令されず、奴隷は奴隷のままだった。偉大なリンカーンは、制度としては欠陥のある多数決のおかげで当選できたのである。
 多数決をフェアなルールとするためには、有権者がなにものにも拘束されず、各自で自由に判断できることが絶対条件である。集団の中に一人のボスがいて、みながそのボスの判断に従うならば、それはボスの独裁と同じである。ところが、政党においては党員に党議拘束をかけることがあたりまえなのであるから、これは独裁と変わりない。
 さらに、「多くの人が空気に流されてしまい、自分の頭で考えないとき。『勝ち馬』に乗ろうとするとき」(137頁)もダメだということになると、これはもうお手上げである。公正な決め方は存在しても、それによって正しい政策が実現できるわけではない。
 安保法制の合憲性について、著者は次のように書く。

 結局、専門的なことを、陪審定理を成立させられるまでに熟慮できるのは、専門家くらいではないだろうか。そこで、憲法の専門家である憲法学者たちを有権者とする多数決を考えてみよう。(155頁)

 これは専門家による制限選挙である。政治だって素人にはなにが正しいのかわからないのであるから、本来なら専門家による制限選挙にすべきである。どうせ素人は一人のボスの言いなりになって組織票を投じるのだから、独裁と同じである。
 著者はそこまで書かないが、ようするに民主主義は虚構である。多数派がまちがう民主主義よりも、一人の専門家が正しい決定をくだすならべつに独裁でもいいのである。
 一票の格差とか、18歳選挙権とか、選挙に行こうキャンペーンとか、そんなことをいくらやったって、単純な多数決で決めているかぎりは政治に民意が反映されることはない。それにもかかわらず、重要な問題の数々を、単純な多数決で決めてきた、そしてこれからも多数決で決めていくであろう、われわれの社会はおかしい。 

「決め方」の経済学―――「みんなの意見のまとめ方」を科学する

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