テレビという見世物小屋

「感動ポルノ」ということを唱えたステラ・ヤングのTEDの記事を読んだが、その意味するところがまだよくわからない。
「自分の人生はうまくいってないけど、もっとひどい人だっているんだ」と思わせるために、健常者に感動を与えるためのモノとして障害者が利用されていることを批判する概念らしい。障害は悪いものではない、障害はマイナスではない、かといって、障害があるからといって素晴らしい人間というわけでもない、障害が例外としてではなく、ふつうのこととして扱われる世界で生きたい、ということを訴えている。
24時間テレビ』の裏で、Eテレの『バリバラ』がその演出を「感動ポルノ」だと批判していたが、私もたしかに『24時間テレビ』はきらいだし見る気もしないが、かといって『バリバラ』のような番組がいいとも思わない。低俗なお笑い芸人のまねをして、低俗な芸とも呼べない芸で視聴者を笑わせようとしている障害者の姿を見せられても、痛々しいだけだ。それこそ健常者に笑いを与えるためのモノとして利用されている。感動されるより、笑いものにされる方がよほど残酷ではあるまいか。
 人生の不条理や、宿命の残酷さに真剣に向き合こともなく、おのれの低俗さや軽薄さをアピールして、それでいったい何を得るのか。
24時間テレビ』に出演していた女性が、その演出の裏側を暴露して、「感動的な障害者像」は編集によって作り出されたものに過ぎないというのだが、そもそも彼女はなぜそんな番組に出演をしたのだろうか。『24時間テレビ』への出演を誰かに強制されたわけでもあるまい。「感動ポルノ」だとわかっている番組に出演しておきながら、裏番組でその内実を暴露するというのは、タレントとしての仁義にもとる。しょせんテレビは見世物小屋である。お笑いタレントにでも感動タレントにでも、なりたければ、なればいい。
 これは余談であるが、最後に紹介するブログの記事は著者の意図とは逆に、すぐれたタモリ論になっている。これまでに書かれたタモリに関する記事の中でも出色のものである。
 これも著者の意図とは逆に、感動ポルノは必ずしも「物語」の質を落とすわけではない、ということを証明している。

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見世物小屋の文化誌

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